運命は戦艦「大和」とともに… 軽巡ながら奮闘した「矢矧」をご存じか
旧日本海軍の軽巡洋艦「矢矧」が1945年の今日、戦艦「大和」と共に沈没しました。水雷戦隊の旗艦として、駆逐艦8隻を従え沖縄へ向かったのです。同艦の生涯を振り返ってみます。
「矢矧」は不沈艦?
年が変わった1945(昭和20)年3月、「矢矧」は水上特攻を下令されます。沖縄に上陸したアメリカ軍に対し、座礁させ砲台化した艦から砲撃を加えるという作戦でした。結果は冒頭で触れた通りその途上で失敗に終わり、「矢矧」も撃沈されました。

では、最期となった海戦の時系列を追ってみます。
出撃したのは4月5日。艦隊は10隻から成りました。しかし翌日にはアメリカ軍の潜水艦によって動向が察知され、攻撃を受けるのは時間の問題となります。護衛の航空機を付けることもできず、日本はとうに制海権・制空権を失っていました。
艦隊にアメリカ軍機が襲来したのは翌7日正午過ぎでした。航空機は沖縄近海の空母から発進したもので、曇天だった当日の雲間を縫って攻撃を仕掛けました。早くも「矢矧」には魚雷1本が命中し、航行不能に陥ってしまいます。
駆逐艦も次々に撃沈されていきました。空襲回避ができず、また「大和」の次に大きい「矢矧」は格好の標的となり、集中攻撃を受けます。魚雷と爆弾が計10発以上、立て続けに命中すると、「矢矧」は持ちこたえられずに転覆、14時頃に沈没しました。とはいえ基準排水量6000トン台の軽巡洋艦が、攻撃一辺倒の戦闘におよそ2時間耐えたのでした。
やや前方にいた「大和」は14時半前に沈没。しかし当時の国民がこの事実を知る由もなく、またアメリカ軍の沖縄侵攻を食い止めることもできず、敗色はいよいよ濃くなっていきました。
矢矧は通常では考えられない数の敵の爆弾に被弾しながら、最後に沈むまでもちこたえた艦艇です。軽巡では2、3発の爆弾で沈んでしまうところを、矢矧はその倍以上の被弾に耐えた。矢矧の粘りには日本海軍最期の意地が感じられると書いてあります。きっと素晴らしい設計だったのでしょう。