「超高高度飛ぶ漆黒の偵察機」結局何だったの…? 実は軍用機の歴史を変えた経緯とは
ソ連上空で撃墜される事件を契機に、当時大きな外交問題に発展したアメリカの高高度偵察機「U-2」。実は軍用機をめぐる用兵思想に、大転換をもたらした機体でもあります。
「黒いジェット機事件」後のU-2、何があった?
一方で、U-2製造における真の目的である、ソ連上空への飛行は4年目を迎えるとさらに大胆な計画が打ち出されました。これまではソ連上空まで進出した後はトルコ領内の基地に戻るルートをとっており、行動半径が限られていました。そこで、さらに奥地を偵察すべく計画されたのが、パキスタンの基地を離陸してソ連領内を縦断しコラ半島を経由した後、ノルウェー領内の基地に着陸するルートです。

天候による延期がありましたが、アイゼンハワー大統領の承認を得ていよいよ1960年5月1日早朝、ゲーリー・パワーズ飛行士操縦のU-2が、パキスタンから離陸します。奇しくもこの時に使用された機体は、藤沢に不時着した新型のU-2でした。
パキスタンの基地を離陸後順調に推移していたこのミッションですが、行程の前半を終えソ連の中心部の差し掛かったところで、地対空ミサイルSA2がU-2の近くで爆発しました。U-2は高い高度を飛ぶためにギリギリの強度で設計されていました。そのため、爆風を受けただけで機体が破壊されてしまったのです。
パワーズ操縦士は墜落する機体から何とか脱出して救助されましたが、機体の残骸からは偵察機材が回収されます。そうして、墜落した機体がアメリカの偵察機だったことが明るみになってしまったのです。
この事件により、ソ連領空を飛行することはたとえ飛行高度が高くても安全ではなくなったことが認識されるようになりました。U-2を設計したケリー・ジョンソンはソ連上空を安全に飛行するためにさらに高い高度を高速で飛行することでミサイルの迎撃を回避できる機体の設計を開始しました。目標は高度8万フィート(2万4000m)を速度時速2000マイル(3200km/h)で飛行可能な機体でした。これが後にマッハ3級の戦略偵察機SR-71として完成することになります。
しかし、U-2撃墜は偵察機にとどまらず、ほぼ全ての軍用機の運用に大きな影響をもたらしました。高高度を飛行することを前提に設計された軍用機が、そのメリットを活かせなくなったからです。
象徴的な出来事がマッハ3級の戦略爆撃機XB-70の中止。同様に超音速戦略爆撃機B-58は就役後わずか10年で全機が退役することになりました。この事件を契機にその後開発された多くの軍用機がB-1爆撃機やトーネード戦闘攻撃機のように低高度高速飛行に主眼が置かれるようになりました。
パワーズ操縦士はソ連の法廷で有罪判決を受けましたが、米ソ間の人質交換で1962年にアメリカに帰国しました。優秀なパイロットではありながら、帰国後は冷遇されていたことに同情するアメリカ国民は少なくないと言われています。同氏はその後、民間人として報道ヘリコプターの操縦に従事しましたが1977年墜落事故により亡くなっています。
※一部修正しました(4月16日22時10分)。
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