「次は新宿です」「次も新宿です」!? 世界一のターミナル駅になる過程で存在した“2つの新宿駅”時代とは?
世界一の利用客が集まる駅、新宿。片田舎の小さな駅として開業してから140年、周辺は驚くべき発展を遂げました。その過程で、新宿駅に「ふたつの新宿駅」が存在した時代もありました。
新宿駅に「ふたつの新宿駅」が誕生!?
その後、甲武鉄道は1889年のうちに立川~八王子間を開業させると、こんどは新宿から東、都心部を目指し延伸を続けます。1894(明治27)年に新宿~牛込間、翌年には牛込~飯田町間、1904(明治37)年に飯田町~御茶ノ水間が開業します。

ちなみに牛込駅は2020(令和2)年に200m西に移設した現在の飯田橋駅付近に、飯田町駅は飯田橋駅の東、水道橋駅との中間あたりにありました。
甲武鉄道が1904年に電車運転を始めたことなどから、新宿駅は開業から21年がたった1906(明治39)年に構内の改良工事が行われます。開業時には現在の東口あたりにあった駅舎を、甲州街道に面した現在の東南口あたりに移転させました。
この移転にあわせて、甲武鉄道は新宿駅構内に“ふたつのホーム”を設けました。ひとつは二代目駅舎に近い「甲州口」、もう一つは青梅街道に近い大久保寄りの「青梅口」で、甲武鉄道の電車はどちらのホームに停まるという運行をすることになったのです。
同じ駅(電停)でふたつのホームに停まるという運行は、いまも鹿児島市電などで例があるものの、電車の両数が少なかった頃の珍しい形態でしょう。
そしてこの年の10月には甲武鉄道が、11月には日本鉄道が相次いで国有化され、新宿駅も官設鉄道の駅となりました。戦後は国鉄、そしてJRとなり現在に至ります。
関東大震災で東京の人の流れが変わった
新宿の人の流れを大きく変えるきっかけとなったのが、1923(大正12)年の関東大震災です。
新宿駅の駅舎も大破しましたが、被害がより大きかったのは東京の東部、下町の人口密集地帯でした。被災した人々は、被害の小さかった東京西部や多摩地域に移住し、中央線や京王電気鉄道(現・京王電鉄)で通勤するようになり、新宿駅の利用者が急増していきます。
震災の翌年には中央線のふたつのホームを1か所にまとめ、2年後の1925(大正14)年には現在の東口あたりに三代目となる鉄筋コンクリート造りの新駅舎が完成。駅周辺の開発とともに、発展していくことになります。
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