武蔵野線はなぜ不便なのか? 乗換は「快速とまらない駅」ばかり “後発”環状線のルートが決まるまで
都心から郊外へ向かう「放射線」と、環状のJR武蔵野線が交わる駅は、西船橋、新松戸、南浦和、西国分寺など、優等列車が通過する駅が大半を占めます。なぜこのような乗換駅ばかりになったのでしょうか。
武蔵野線のルートはこうして決まった
埼玉県も1956(昭和31)年、浦和市の要望を踏まえて「工業の原材料品の大半は常磐、東北、中央各国鉄線で輸送されているが、これらは都心を通過するため輸送能力を低下している。この混乱を解決して生産力の増強を図ることは経済自立達成に益する」として「柏~流山~吉川~越谷~浦和~足立(現・志木市)~所沢~立川~南武線」の建設を陳情しました。
『越谷市史(通史下)』によれば、その後も大宮、岩槻、春日部、野田の各市は東武野田線を国鉄で買収し、武蔵野線の一部とする「大宮ルート」や、川口市による草加~川口~戸田を通る「川口ルート」の誘致運動が起こりました。
国鉄新橋工事局は航空測量や実地調査を行い、1959(昭和34)年に「南柏~三郷~草加~鳩ケ谷~川口~西川口」の第一案と、「南柏~流山~越谷(蒲生)~南浦和」の第二案に絞り、国鉄本社に具申しました。最終的に1964(昭和39)年4月、運輸大臣は同年に設立された日本鉄道建設公団に対し、松戸~吉川~越谷~浦和~所沢~国分寺~府中に至る武蔵野線基本計画を示し、建設を指示しました。
こうしてルートが正式に決定しましたが、挙げられた経過地はいずれも駅名ではなく地名です。松戸駅や浦和駅、国分寺駅などすでに市街化が進んだ地域への鉄道建設は用地取得に多大な費用がかかり、工期も長引きます。そもそも貨物列車のバイパス路線に市街地への乗り入れは必要ないため、主要駅からややずらす形で、各路線に接続したのです。
1960年代前半と現在の航空写真を比較すると、当時は新松戸、南浦和、西国分寺とも市街地から外れており、容易に土地取得が可能なルートだったことが分かります。国分寺と国立に挟まれた西国分寺すら、当時は開発が進んでいませんでした。
ピックアップした3区間のうち、最も住宅地に近いのは南浦和~武蔵浦和間です。武蔵野線はこの区間をやや南に膨らんで通過しますが、これはすでに住宅化していた周辺の高台を避けるためでしょう。また、一部区間をトンネルにすることで、住宅地を潜り抜けています。
開業後、沿線が急速に住宅化し、利用者が増えたことで、冒頭の新松戸に加え、南浦和、西船橋などでも速達列車の停車を求める声が上がりましたが、ホーム新設用地の確保は困難であり議論は進みませんでした。
そんな中で浮上した新松戸駅のホーム増設構想。土地区画整理事業との連動という行政の本気は実現するのか、そして他の結節点に波及するのか、今後の動きに注目です。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
不便ではないが?便利です。