「ちょっと異質」なJR川越線 “忘れられたような”存在のローカル線が大変貌できたワケ 今や日本トップクラスの“単線”

首都圏を走るJR川越線は、国防を意識したローカル線としてスタートし、現在は東京や神奈川まで直通する通勤路線に進化しています。その転機は新幹線の建設ですが、何が川越線の命運を分けたのでしょうか。

川越線はかつて「忘れられたような線」だった

 首都圏には様々な鉄道路線がありますが、その中でも埼玉を走るJR川越線はちょっと異質な存在です。

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川越線の単線区間を走るJR東日本E233系電車(画像:写真AC)

 東京30~40km圏の路線でありながらほとんどの区間が単線で、川越の西側(川越西線)は4両編成が日中1時間あたり2本の近郊ローカル線。東側(川越東線)は全列車が埼京線に直通し、東京の池袋、新宿、渋谷、さらにりんかい線新木場駅まで乗り入れますが、やはり運行本数は日中3本、朝ラッシュでも4本にすぎません。

 埼玉県で最初に市制を施行した川越は、鉄道整備が比較的早く進んだ地域です。1894(明治27)年から翌年にかけてに川越鉄道(現・西武国分寺線・新宿線)が開業し、国分寺で中央線と接続。遠回りながら東京都心と直結しました。

 川越鉄道開業後に大宮~八王子間あるいは我孫子~川越間の建設構想も中央政界主導で浮上しましたが、1914(大正3)年の東上鉄道(現・東武東上線)開業後、大正期から昭和初期にかけて八高線の建設計画が動き出すと、地元からも大宮~八王子間の建設要望の声が上がります。

 川越商工会議所が1933(昭和8)年に提出した建議に「地方産業ノ開発ニ資スルト共ニ、一朝有事ノ際帝都ヲ中心トスル環状線ノ一部トシテ国防ノ充実ヲ図ラレン事ヲ建議セン」とあるように、構想を後押ししたのは戦争の影でした。

 政府も満洲事変勃発後の情勢変化を踏まえ、川越を中間地点として大宮と八高線を結ぶ路線は国防上必要と判断。1934(昭和9)年に鉄道敷設法の建設予定線に組み込まれると、早くも翌年に着工し、太平洋戦争開戦の前年、1940(昭和15)年7月に開業しました。

 なお、大宮~川越間には1906(明治39)年に開業した路面電車、西武川越線(元・川越電気鉄道)が営業していましたが、川越線開業後に廃止されています。

 戦後の川越線を時刻表とともに見ていくと、1947(昭和22)年の運行本数はわずか下り5本、上り4本でしたが、1950(昭和25)年にディーゼルカーが投入されると、下り18本、上り17本まで増えています。

 高度成長期に突入した1961(昭和36)年には、下り34本、上り36本(うち14往復は川越東線の区間列車)となりますが、1963(昭和38)年発行の毎日新聞社編『日本の鉄道』は「ラッシュ時の朝夕は、ディーゼルカーを4両から5両に増結する。さらに7両編成の汽車を高麗川~大宮間に繰り出」すとあります。日中はディーゼルカー1両の運転だったようです。

 それなりの両数に見えますが、同書は地元利用者の「東京に近いわりに、広告板がぜんぜん見えないでしょう。忘れられたような線なんです」とのコメントを紹介し、「東京の郊外線によく見られる住宅ブームも、ここにはなかった」と記しています。

【さらに変わる?】川越線「架け替え」のイメージ図(画像)

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コメント

1件のコメント

  1. 沿線民なので、あえてコメントしておきます。

    ラッシュ時は登上り最大8本、下り5本と