これも「三菱車」!? 初期は“押しがけ”オンリーだった「伝説のバイク」とは?
戦前の2大軍用機メーカーだった現在の三菱重工とSUBARUは、戦後復興期、ともに新たな乗りものとしてスクーターを打ち出します。三菱の「シルバーピジョン」は、航空機の資材で誕生し、復興の「足」となりました。
累計2万台もの大ヒットモデルも
初代シルバーピジョンC-10の系統となる初期モデル(C-11、C-12、C-13)は、ライバルのラビットより先にテレスコピック式を採用し、静かな進化を遂げていきました。

そして、後の言葉でいう「フルモデルチェンジ」を果たしたのが1950年登場のC-21という大型モデルです。シルバーピジョン初のキック式始動装置を採用し、押しがけという面倒なエンジンのかけ方からユーザーを解放しました。
また、エンジンも112ccから148ccへとアップ。結果的にラビットのS-41というモデルと並ぶ、和製スクーターのスタイルを構築した1台になりました。
同年、ホイールベースを伸ばした改良型のC-25が登場。以降3年間で累計2万台もの生産を実現したヒットモデルとなり、シルバーピジョンの名を世に知らしめた名車としても知られています。
続く1953年には、大ヒットとなったC-25の改良モデル、C-35が登場します。こちらも相応のヒットに至り、月産1500台オーバー、累計約2万台の生産を実現しました。
また、1960年にはさらなる進化モデル、C-L10をリリース。エンジンは87ccに抑えられたものの、タイヤを8インチから12インチにアップし、より手軽に乗れるライトスクーターとして重宝されました。
そして、戦後の完全復興を象徴する東京オリンピックが実施された1964年。シルバーピジョンは海外のデザイナーを起用した新型のC-140がリリースされます。これは同年に発売した三菱の四輪車・デボネアと合わせてのデザイン依頼で、デボネア同様の高級メタリック塗装が施されました。
高度成長期を支えたシルバーピジョン
ただし、結果的にはこのC-140を最終モデルにシルバーピジョンは1965年にブランドごと消滅。理由は、財閥解体で分割されていた三菱重工業への再統合の影響と言われています。ただし、ここまでのシルバーピジョンの進化の歴史をもってしても、ライバル・ラビットのほうに支持が集まっていたのが事実で、実際のところ、シルバーピジョンブランドは不採算によって整理されたのかもしれません。
他方、ライバルのラビットもまた1968年に生産終了となります。こちらは一説には、販売元の富士重工業が一般乗用車メーカーへとシフトすることの影響だという見方があり、ラビット自体は採算が取れていたものの、生産から手を引くことにしたとも。
こうして和製スクーターの2大ブランド、シルバーピジョンとラビットは姿を消していきました。現代的に見てラビットに比べれば、シルバーピジョンの方がマニアックに感じるのも正直なところですが、それでも敗戦後の高度成長期を支えたスクーターであることには変わりはありません。
Writer: 松田義人(ライター・編集者)
1971年、東京都生まれ。編集プロダクション・deco代表。バイク、クルマ、ガジェット、保護犬猫、グルメなど幅広いジャンルで複数のWEBメディアに寄稿中。また、台湾に関する著書、連載複数あり。好きな乗りものはスタイリッシュ系よりも、どこかちょっと足りないような、おもちゃのようなチープ感のあるもの。
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