米軍が最も恐れた日本の戦艦=「大和」じゃない!? 際立つ存在感を示した古豪戦艦とは “快速”活かし駆け回る

1913年(大正2年)の8月16日、日本海軍が第二次世界大戦で運用した戦艦12隻のうち、唯一の外国製戦艦である戦艦「金剛」が竣工しました。

開戦時「最も旧式」ながら「最も活躍」

 開戦直後1941(昭和16)年12月、「金剛」は「榛名」と南方へ進出。マレー沖海戦でイギリス艦隊と対峙した後、クリスマス島(イギリス領)への艦砲射撃などを行いました。その後、1942(昭和17)年4月のセイロン沖海戦、6月のミッドウェー海戦に参加し、さらに北方作戦の支援へと向かいます。

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1944年6月のマリアナ沖海戦で、アメリカ海軍の空母艦載機から猛攻を受ける戦艦「金剛」(画像:アメリカ海軍)

 10月にはガダルカナル島を巡る一連の戦いで、「榛名」と共に同島にあるアメリカ軍のヘンダーソン飛行場に対し、艦砲射撃を実施。飛行場を焼き尽くしてアメリカ軍に大きな衝撃を与えました。現地に展開していた日本陸軍の第17軍司令部は、この攻撃を「野砲千門に匹敵」すると評しています。

 アメリカ軍は、水上遭遇戦で不覚を取らないように、新型戦艦であるノースカロライナ級やサウスダコタ級を空母に随伴させたり、ガダルカナル島周辺に投入するなど、金剛型への対処を迫られました。

 1944(昭和19)年に入ると、6月のマリアナ沖海戦、10月にはレイテ沖海戦に参加します。レイテ沖海戦では、栗田健男中将が率いる主力部隊に配属され、「大和」「武蔵」「長門」「榛名」などと共に、フィリピンのレイテ島へ上陸しようとするアメリカ軍の迎撃へ向かいます。

「金剛」は、フィリピン東部のサマール島沖でアメリカの護衛空母群と会敵、砲撃を加えます。俊足を生かし、アメリカ軍の駆逐艦が放った魚雷を回避しつつ空母群を追い、集中砲火を浴びせました。この戦いで「金剛」は、護衛空母「ガンビア・ベイ」や護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」の撃沈に貢献したとされており、アメリカ軍に再び大きな衝撃を与えたのです。ただ「金剛」も無傷では済まず、空襲で至近弾を受け、船体側面の喫水線付近に設けられたバルジに深刻な損傷を受けてしまいました。

 レイテ沖海戦後、損傷の修理が必要となった「金剛」は日本本土への帰投が決定、11月にブルネイを出港します。しかしその途上で、アメリカ軍の潜水艦「シーライオン」に発見されてしまいました。潜水艦は魚雷を発射、うち2本が「金剛」に命中します。艦齢が30年を超え、満身創痍となっていた老体に、魚雷は致命傷となりました。しばらく航行は可能でしたが、艦内の浸水は徐々にひどくなっていきます。「金剛」はとうとう転覆、台湾北西部の沖合で大爆発を起こし沈没しました。被雷から沈没まで2時間もありましたが、乗組員の退艦が遅れたため、約1300人が犠牲となる惨事となってしまいました。

 明治期に進水した老齢艦ながら、「金剛」は実に多くの海戦に参加しました。金剛型戦艦の4隻は、いずれも戦場で大きな活躍を見せましたが、その中でも大戦後半まで生き残った「金剛」の実績は群を抜いており、日本海軍で最も活躍した戦艦とも言われます。また実際に干戈を交えたアメリカでも、実戦で最も多くの被害を与えた「KONGO」が、日本戦艦を代表する存在と評価されています。

 なお、「金剛」の艦名は海上自衛隊のイージス艦「こんごう」に受け継がれています。ちなみに、イージス艦「こんごう」は今年で就役32年を迎え、先代の「金剛」の艦齢(31年)を上回るベテラン艦となりました。

【画像】壮観!これが勢ぞろいした戦艦「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」です

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