残っていれば化けていた? 都市を駆けた廃止26年の鉄道「今は不便になった」 “LRTみたいな構造”がアダに?

日本海側の主要都市を1990年代後半まで駆けていた「路面電車」の車両が保存され、来訪者の目を楽しませています。宇都宮や富山で重宝されている次世代型路面電車(LRT)になる可能性も秘めていた路線は、なぜ消えてしまったのでしょうか。

実は“あの橋”は鉄道通せる仕様!?

 軌道線と専用軌道を直通運転する運行形態は欧米で広がった次世代型路面電車(LRT)をほうふつとさせ、宇都宮市と富山市はLRTの登場がゲームチェンジャーになりました。新潟交通電車線が残っていれば脱炭素化に役立ち、利便性も高いLRTとして再度脚光を浴びた可能性もあります。なぜ21世紀を待たずに消滅してしまったのでしょうか。

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新潟交通電車線の旧・月潟駅に残る駅名標(大塚圭一郎撮影)

 新潟交通電車線が敷設される大きなきっかけとなったのが、信濃川の支流である中ノ口川で住民の足となっていた蒸気船が1927年に一時運休した出来事です。大河津(おおこうづ)分水堰が陥没したのが原因で、代替となる鉄道を建設するために中ノ口電気鉄道が29年に設立されました。32年に新潟電鉄へ改称し、43年に新潟交通となりました。

 1933年8月の県庁前―燕間の運行開始後も、新潟駅への延伸を計画していました。信濃川へ29年に架けられた3代目となる現在の萬代橋(ばんだいばし、長さ306.9m)は、電車も通れるように22mもの幅を確保しましたが、37年に勃発した日中戦争による物資不足が響いて新潟駅への延伸は実現しませんでした。

 新潟交通電車線は第2次世界大戦後に利用者数が急拡大し、1963年度の輸送人員は約630万人に上りました。しかしながら、沿線住民らのマイカー所有が広がるモータリゼーション化が逆風となります。

 クルマの通行が増える中で、軌道線区間の電車はクルマの通行を妨げる「厄介者」扱いを受けました。マイカーへの移行による利用者数減少で電車線は赤字経営が慢性化し、白山前―東関屋間が1992年3月に運行を終了。軌道線を駆けていた“主”が、後発のマイカーに蹴落とされる「ひさしを貸して母屋を取られる」形で退場に追い込まれました。

 専用軌道だけを走るようになった電車線は、1993年7月末で月潟―燕間も営業運転を終了。これで燕駅でのJR東日本弥彦線との接続がなくなり、孤立路線になってしまいました。

 残る東関屋―月潟間は95年度の輸送人員が約101万人まで落ち込み、99年4月に全廃されて66年の歴史に幕を閉じました。

【廃線とは思えない…!?】これが「新潟交通電車線」と保存車両です(地図/写真16枚)

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