羊かん製造だけじゃない! 日本海軍の人気もの「間宮」じつは知られざる“裏の顔”も
旧日本海軍で戦闘艦艇ではないながら知名度の高い艦に「間宮」があります。将兵たちが垂涎で求めたという名物の「間宮羊かん」などが広く知られますが、実は食とは全く別の、とある重要任務も担っていました。
甘味だけじゃない!「病院」や「監査役」としても活躍
ほかにも「間宮」には、入浴施設や娯楽施設が設けられていました。それらは、設備に制約の多い小型艦艇の乗組員に供したほか、充実した医療設備も揃えていたので病院船代わりの対応も可能でした。
また、優れた無線通信設備も擁していたため、軍内の無線監査艦としても目を光らせています。無線監査とは、不適切な送受信や無駄な発信をしていないか目を光らせるもので、各艦の応答や発信時間を計測して通信技量を見定めるといったこともします。もし目に余るようであれば上級司令部に報告したり、場合によっては当該艦を摘発したりもあったとか。なので、それを知っている士官は「間宮」の姿を見ると緊張することもあったのではないでしょうか。
このように、「間宮」は平時から海軍内で重用されていましたが、太平洋戦争が始まると一躍、「艦隊の人気者」としての地位を獲得します。同艦は、厳しい戦場での数少ない楽しみのひとつ「食」の「お届け人」だったからです。なので、前線に赴く際には護衛の艦艇が付きましたが、それこそ要人警護のごとく「間宮」をていねいに守ったそうです。
そのおかげもあってか、「間宮」は1943年10月12日にアメリカ潜水艦「セロ」に雷撃されて大破したものの生還。続いて1944年5月6日にも、アメリカ潜水艦「スピアーフィッシュ」に雷撃されて損傷しましたが帰還できました。
しかし1944年12月20日、アメリカ潜水艦「シーライオン」が「間宮」を雷撃。最初の被雷は持ち堪えましたが、「シーライオン」は「間宮」がまだ浮いていることを知ると、翌21日に2度目の雷撃を加えました。
こうして、艦隊の将兵に愛された「間宮」は戦没してしまいます。生存者はわずかに4名とも6名ともいわれる悲劇的な最期でした。
旧日本海軍には「間宮」のほかに「伊良湖」という給糧艦もありました。しかし、船体サイズは「間宮」の方が大きく、また軍籍の期間も同艦の方が15年以上長いため(「伊良湖」の竣工は1941年12月、また戦没も「伊良湖」の方が早い)、結果、その知名度では圧倒的な差がついてしまったと言えるでしょう。
Writer: 白石 光(戦史研究家)
東京・御茶ノ水生まれ。陸・海・空すべての兵器や戦史を研究しており『PANZER』、『世界の艦船』、『ミリタリークラシックス』、『歴史群像』など軍事雑誌各誌の定期連載を持つほか著書多数。また各種軍事関連映画の公式プログラムへの執筆も数多く手掛ける。『第二次世界大戦映画DVDコレクション』総監修者。かつて観賞魚雑誌編集長や観賞魚専門学院校長も務め、その方面の著書も多数。





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