なぜ「行徳」を目指した!? 徳川家康が真っ先に切り開いた“軍事ルート”とは 鉄道に駆逐された「川の街道」

東京都心にかつて「行徳河岸」という乗船場がありました。行徳は千葉県市川市の地域名です。運河を開削して江戸と行徳を短く結び、200年あまりにわたって船が行き交いました。この航路は、ヒト・モノの両面で江戸を支える重要な大動脈だったのです。

「長距離の渡し船」が運航開始

 運河は海とは異なり波もなく、小さな和船でも長い竿1本で安全に物資を運べます。

 太平の世が続き、この運河は関東や東北から巨大都市・江戸へと、大量の物産を運ぶ一大物流ルートに変貌します。同時に、江戸市民の行楽地として、近くの中山法華経寺(市川市)や、成田山新勝寺(成田市)が人気を博すと、参詣客の利用も急増します。

 行徳地区の中心的存在で、塩の江戸運搬を一手に担う本行徳村は、この利権の獲得に動きます。

 1632(寛永9)年、上納金の支払いと引き替えに、江戸~行徳間の旅客輸送事業の独占が幕府に認められると、本行徳村は、日本橋小網町に専用の乗船場「行徳河岸」を開設し、本行徳側の「行徳新河岸(行徳船場)」との間で「行徳舟」の定期運航を始めました。

 行徳舟は「長渡(ながと)船」とも呼ばれ、厳密には江戸~行徳間の長距離を約2時間で結ぶ、定員24人の「渡し船」です。

 単なる運搬船ではなく、幕府が管理する「街道の一部」との理屈で、他者の参入を拒んだようです。幕府にとっても、行徳舟を特定の者に独占させて管理した方が、不審な乗客のチェックなど軍事・治安上都合が良かったのです。

 行徳舟は大人気で、当初16隻だった和船は、最盛期の幕末には62隻に達しました。

【現地】行徳舟航路の「今の姿」を見る(写真)

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