なぜ「行徳」を目指した!? 徳川家康が真っ先に切り開いた“軍事ルート”とは 鉄道に駆逐された「川の街道」

東京都心にかつて「行徳河岸」という乗船場がありました。行徳は千葉県市川市の地域名です。運河を開削して江戸と行徳を短く結び、200年あまりにわたって船が行き交いました。この航路は、ヒト・モノの両面で江戸を支える重要な大動脈だったのです。

明治の元勲「利通」「博文」の既得権益保護策がかえって仇に

 200年以上安泰だった行徳舟は、1868年の明治維新で状況が激変します。明治政府は、関所や飛脚など、前時代的な交通体系を刷新しますが、「渡し船」については、明治の元勲たちを巻き込み、紛糾しました。

 東京と千葉を結ぶ江戸川の渡し船は、江戸時代から千葉(下総)の村々の独占事業でした。

 1869(明治2)年、東京側の村々は規制緩和を東京府、千葉県に求めますが、決着がつかず判断を内務省に仰ぎます。当時の内務卿(内務大臣)・大久保利通は、既得権益保護の立場を示し、後任の伊藤博文もこれを踏襲します。

 結局、1879(明治12)年に、新規参入に関しては、既存者から不満が出た時は参入を認めず、新設航路の場合は、船着場を設置予定の村落から異論がなければ認可、との方針を固めます。

 利根川・江戸川などには、早くも1871(明治4)年に、初の蒸気船「利根川丸」が就航し、その後も「享通丸」「通運丸」「銚子丸」といった蒸気船が次々に長距離航路を開設し、競争が激化します。ちなみに、通運丸を運営する国策会社・内国通運が、今日の陸運業界国内トップを走る日本通運のルーツです。

 当初これらは、短距離を受け持つ行徳舟と競合しませんでした。しかし1876(明治)9年、行徳舟とは船着場が微妙に違うものの、航路がほぼ一緒の和船が参入します。これに対し行徳舟の船頭たちは、既得権を守ろうと新規参入の和船の経営者を夜襲する事件さえ起こします。

 蒸気船との共存も長続きせず、1878(明治11)年に「東行丸」が行徳航路に参入。その後「光通丸」などもこれに続きます。船着場を、行徳舟の本行徳から数百メートル北の下(しも)新宿とするなどの裏ワザで、内務省の方針をかわしたわけです。

 高速の蒸気船の人気は高く新規参入も増える一方で、時代の波に乗り遅れた行徳舟は衰退していきます。そこで遅まきながら行徳舟の船頭たちも、1879(明治12)年に蒸気船「行徳丸」を就航して再起を図ります。

 しかし、皮肉にも行徳丸は、自分で自分の首を絞める結果となります。

 東行丸や光通丸などの蒸気船は、本行徳の船着場への乗り入れを拒否され、仕方なく下新宿に新たな乗船場を設け営業を始めました。すると蒸気船が発着して便利な下新宿は客足が延び、一方の本行徳は閑古鳥が鳴く状況に。行徳丸の登板も空しく、再起は不可能でした。

 その後、行徳~東京間を結ぶ蒸気船ビジネスは、競争激化などがあったものの、順風満帆に思えました。

 ところが1897(明治30)年、総武線が全線開通し、高速で便利な鉄道へと客足が一斉に流れた結果、鈍重な蒸気船は人気を失い、残念ながら昭和始め頃に、旅客営業は消滅してしまったようです。

【現地】行徳舟航路の「今の姿」を見る(写真)

Writer:

1962年、東京生まれ。法政大学文学部地理学科卒業後、ビジネス雑誌などの各編集長を経てフリージャーナリストに。物流、電機・通信、防衛、旅行、ホテル、テーマパーク業界を得意とする。著書(共著含む)多数。日本大学で非常勤講師(国際法)の経験もある。

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