言い伝えは本当だった!? 隅田川最古「千住大橋」の下に浮かぶブイの謎 長い歴史が物語る「化け物」「戦国武将」の伝説

日光・奥州街道の「千住大橋」は、徳川家康の江戸入城の直後、隅田川(大川)に架けられた最初の橋です。その長い歴史を証明するように、化け物の言い伝えや戦国武将の伝説などエピソードが盛りだくさん。そのような400年以上にもおよぶ橋の歴史をたどります。

日本初の「ブリースドリブ・タイドアーチ橋」

 東京都心から北へ日光・奥州街道(国道4号)を7kmほど進むと、荒川区と足立区の境にある隅田川に、翡翠(ひすい)色の重厚な鉄橋「千住大橋」が見えてきます。

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千住大橋(画像:写真AC)。

 新旧2本が並行する分離式で、古い方の鉄橋は下り線(埼玉方面行き)です。ちなみに上り線は、味気ない鋼製の箱桁橋です。

 旧橋の竣工は1927(昭和2)年で、2027年に100歳を迎えます。全長91.6m、全幅24.2mで、「単径間下路式ブリースドリブ鋼タイドアーチ橋」という少々難解な構造形式です。

「径間」は、橋脚(支点)と橋脚の間のことで、この場合「単径間」なので橋脚がないことが分かります。「ブリースドリブ」は、鋼材を多数の三角形ができるように組み上げる「トラス構造」のことです。

「タイドアーチ」は、弓の弦のように両脇の支点同士を鉄骨などの引張部材(タイ)で直結、荷重の分散・均衡を図るアーチ橋のことを指します。また、「下路式」は、橋梁の構造物よりも道路(橋桁)が下のことを意味します。

 1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、東京や横浜では、膨大な数の橋が崩壊・焼失しました。そこで日本政府は、一大国家プロジェクト「震災復興橋梁事業」を立ち上げ再建を急ぎました。

 この時、「どうせなら、日本の土木技術の優秀さを内外にアピールしよう」との発想から、特に帝都・東京を流れる隅田川には個性的な鉄橋が続々と架けられ、「まるで橋の博覧会だ」と揶揄されるほどでした。

 千住大橋もその一つです。大破した先代の木橋(1886〈明治19〉年竣工)に替わり、耐震・耐火性抜群の鉄橋としてよみがえりました。

「ブリースドリブ鋼タイドアーチ橋」は、長いスパンの橋桁を架けることができ、幾何学模様が美しく力強いのですが、当時としては最先端の技術で、これによる架橋は日本初です。ちなみに千住大橋の成功を踏まえ、下流の白髭(しらひげ)橋(1931〈昭和6〉年竣工)などにもこの形式が採用されていきます。

 実はこの千住大橋は、隅田川(大川)に架けられた最初の橋であり、その歴史は1594年に造られた木橋に遡ります。徳川家康の江戸入城(1590年)直後ですので、400年以上の歴史を誇ります。

 江戸を天下統一後の“首都”にしようと構想した家康は、交通・物流ルートの強化に熱心でした。特に北関東・東北を結ぶ日光・奥州街道の整備に力を入れ、街道を途中で遮る大川への架橋は最優先事項だったようです。

 そこで、かつて家康の最強ライバルとして覇を競ったものの、その後屈服した東北の伊達政宗は、服従の証(あかし)として、自国領の陸中南部(現在の岩手県中部から青森県東部)で産出される、水に強く腐りにくい木材「高野槇(こうやまき)」を橋の用材として大量に差し出しています。

【実在】「正宗の高野槇橋杭」の位置を示すブイ(写真)

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