「ビートルの父」をスカウトした“もう一人の独裁者”! 大戦に翻弄されたポルシェ博士 ヒトラーを選んだ理由とは

ドイツの大衆車「フォルクスワーゲン」の生みの親であり、ポルシェ社の創設者のフェルディナント・ポルシェ博士。アドルフ・ヒトラーとの関係が有名な彼ですが、実はそれ以前にポルシェ博士と接触した“もう一人の独裁者”が存在しました。

ヒトラーより先に動いた“独裁者”がいた!

 そんなフェルディナントに、ヒトラーよりも先に目を付けた人物がいます。それがソビエト連邦の指導者、ヨシフ・スターリンです。ナチス党がドイツで政権を取る1年前の1932年、ソビエトを訪れたフェルディナントは、スターリンに「国家設計家」としてソビエトに来ないかと打診されたといいます。

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フォルクスワーゲン・タイプ1を基に開発された「キューベルワーゲン」(斎藤雅道撮影)

 国家設計家とは、ソビエトが5か年計画で進めていた、重工業の発展と農業の集団化を推進するためのポストでした。スターリンの打診は、自動車や航空機、戦車、トラクターなどの開発任務を、フェルディナントに任せるという話でした。

 しかし、フェルディナントはこの話を辞退してしまいます。国家の産業発展を担う魅力的な提案ではありましたが、夢であった安価で高性能な小型車や、それまで心血を注いできたレーシングカーを開発したいという希望は、ソビエトではかなえられないと判断したのです。

 そして、フェルディナントは再びドイツに戻り、アドルフ・ヒトラーと出会います。安価な国民車と、国内を走る高速道路網の必要性を感じていたヒトラーは、すぐにフェルディナントと意気投合。こうしてドイツのための“国民車”の開発がスタートし、後にフォルクスワーゲン・タイプ1の原型となる試作車が完成しました。

 ところが量産の目前にして、不運にも第二次世界大戦が勃発してしまいます。クルマの開発と並行し、車両を製造するための工業都市も建設が進んでいましたが、大衆車になるはずだったタイプ1は、軍用車へ転用されてしまいます。またフェルディナント自身も、タイプ1の設計をベースとした「キューベルワーゲン」「シュビムワーゲン」などの軍用車、重戦車などの開発を担当することになりました。

 第二次世界大戦後、フェルディナントはドイツ軍に協力したとして、連合軍に一時拘束されますが、1947年に解放されます。そして戦前にストップしてしまったフォルクスワーゲンの量産も開始されました。

 ほぼ同時期、フェルディナントの息子フェリー・ポルシェにより、ポルシェ社としても初めての量産車「ポルシェ356」の生産が開始されました。しかし、フェルディナントは1950年に脳梗塞を発症し、翌年1月に死去。両車の生産開始を見届けながら、75年の生涯に幕を閉じました。

 高い技術力・発想力から、ブルガリア王室の特別功労賞や、ドイツの芸術科学国家賞など多数の賞を受賞したフェルディナント・ポルシェは、自動車業界に残した功績の大きさが死後も評価され、アメリカの自動車の殿堂やカーエンジニアオブザセンチュリーなど、さまざまな賞を追贈されています。「天才エンジニア」と呼ばれたのも、うなずける人物でしょう。

【当時の弾痕まで!】これが「軍用フォルクスワーゲン」です(写真で見る)

Writer:

なぎはまな。歴史は古代から近現代まで広く深く。2019年現在はフリー編集者として、某雑誌の軍事部門で編集・ライティングの日々。趣味は自衛隊の基地・駐屯地めぐりとアナログゲーム。

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