「ん、これ“島”じゃないか…?」千葉の団地エリアに不思議な一画 行ってみたら“ちょっと残念な光景”が

千葉の湾岸エリアで近接して並行する京葉道路と東関東道との間に、不思議な「島」が存在します。陸橋の側道から入る「行き止まりの島」です。いったい何があるのでしょうか。

壮大な埋め立て計画が生んだ“中州”

 ではこの三方を水路に囲まれた特異な駐車場は、どうして生まれたのでしょうか。その背景には、習志野市の埋め立ての歴史が関係しています。

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ふれあい橋の側道はそのまま高架下の駐車場入口となる。利用者募集の立て看板があるが、その状況は思わしくないようだ(植村祐介撮影)

 1950年代まで、船橋市〜習志野市〜千葉市へとつながる海岸線は、いまの国道14号のすぐ南にあり、現在の東関東道はもちろん、京葉道路が走っているあたりは海でした。しかし1961年に習志野市での「第一次埋立」がはじまり、海岸線は現在の京葉道路が描くラインまで南下しました。

 その後の「第二次埋立」で、海岸線は現在の東京湾岸道路の南側まで進みますが、このとき内陸側に取り残される形になった漁港から東京湾に出入りする船を通すため、船溜まりから海にでるための水路が確保されます。

 そして将来的に京葉道路の南側に整備される住宅地と内陸側をつなぐ道の整備を見すえ、現在駐車場となっている用地が“中州”のように残されたのです。

 第二次埋立で地形がほぼ現在と同じ状況になった1979年の航空写真を確認すると、京葉道路の南側には水路を隔て、日本住宅公団(現 UR都市機構)の「秋津団地」(習志野海浜秋津団地)の整備がはじまっている姿が見てとれます。

 さらに1983年の航空写真では、中州の東側の「香澄県営住宅」にも多くの住民が入居している状況がわかります。ただこの時代、中州部分は完全な更地で、きちんとした道路の整備はなく、文字通りの“孤島”状態です。

 ここに橋を架ける工事がはじまったのは1986年からで、1990年に完成、高架下は駐車場となり、第二次埋立当初からロングスパンで考えられた都市計画がようやく結実することになったのです。

 ちなみに「ふれあい橋」という名称は、人と人とのふれあい、国際交流を目指す習志野市が、市民に親しまれる橋となることを願い、名付けたものとされています。

【え…!】これが「ナゾの島」の内部です(写真)

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