JR大船渡線、なぜか遠回り 計画を二転三転させた「我田引鉄」とは
大船渡線は一ノ関~盛間を結ぶJRのローカル線。このうち山間部を通る一ノ関~気仙沼間は、一部の区間で遠回りしています。なぜ真っすぐ建設しなかったのでしょうか。
政治の力がルートを変えた
東北地方の鉄道路線図を眺めると、JR大船渡線のルートが大きく遠回りしているのが気になります。
大船渡線は、岩手県一関市の一ノ関駅から宮城県気仙沼市の気仙沼駅を経て大船渡市の盛駅に至る、JR東日本のローカル線です。一ノ関~気仙沼間は山間部を通りますが、太平洋沿いの気仙沼~盛間は2011(平成23)年3月に発生した東日本大震災の影響で運休中。バス高速輸送システム(BRT)による代行バスが運転されています。
山間部のルートは東西を横断していますが、なぜか陸中門崎~千厩間は北の方へ大きく遠回りしています。この区間の営業キロは26.1km。直線ルートで結んだ場合の約3倍もの長さです。といっても、鉄道建設の障害になるような大きな山などが直線ルート上にあるわけではありません。なぜ遠回りしているのでしょうか。
大船渡線は1918(大正7)年に計画されましたが、当初は陸中門崎~千厩間で遠回りする予定はありませんでした。しかし、大船渡線の予定ルートから外れた摺沢(千厩から北へ約8km)の住民らが、鉄道を誘致しようとルート変更の運動を展開。1920(大正9)年の衆議院選挙でも、摺沢出身で当時の与党だった立憲政友会の政治家が当選しました。
この結果、国政の場で摺沢経由を求める声が強くなり、大船渡線の計画は摺沢を経由するルートに変わりました。しかし、変更後のルートは千厩や気仙沼には立ち寄らず、大船渡に直接向かうことになります。このため、今度は千厩の住民が動きました。当時の野党だった憲政会の協力を受け、ルート変更を求める運動を展開。1924(大正13)年に憲政会が第一党になったのを機に、大船渡線は千厩を経由するルートに再び変更されました。
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