JR大船渡線、なぜか遠回り 計画を二転三転させた「我田引鉄」とは
『東スポ』前身紙がローカル線の建設を批判
ただ、大船渡線はこの時点で一ノ関~摺沢間の工事が完成間近でした。この状態で直線ルートの計画に戻せば、陸中門崎~摺沢間の工事が無駄になってしまいます。そこで、摺沢から千厩に向かい、そこから先は最初に計画された通りのルートで建設されることになりました。
これにより、陸中門崎~千厩間は遠回りに。そのルートの形が鍋のつるに似ていることから「鍋鉉(なべづる)線」と呼ばれています。ちなみに、1992(平成4)年には一般公募により「ドラゴンレール」という愛称が付けられました。この愛称を提案した気仙沼市の小学生(当時)は、命名の理由としてルートが竜のようにくねくねと曲がっていることを挙げていました。
このように、政治力をバックに鉄道を誘致した例は古くから存在しました。なかには大船渡線のように、政権交代の影響でルートが変更されたり、工事の中止と再開が繰り返されたりした路線もあります。
こうした状況を批判的にみるマスコミも、当時から存在しました。『東京スポーツ』の前身である『やまと新聞』は1914(大正3)年2月2日、鉄道を題材にした社説で「将来有望なる線路は勿論之を敷設すべき」としつつ「党人の我田引鉄の為め、地方にのみ鉄道を延長することは、大に警戒するを要す」と述べ、政治に左右されるローカル線の建設に懸念を示しました。
「我田引鉄」とは、「我田引水」(自分の田んぼにだけ水を引き入れる→他人のことを考えず、自分の都合のいいように行動する)にちなんだ造語。「自分の票田に鉄道を敷く」という意味です。
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