「紙切れ1枚」になった戦時中の全国時刻表 物資統制が進むなかで減ったページ数
徐々に減っていったページ数
日本は1931(昭和6)年の満州事変を機に、ほぼ途切れのない紛争状態と戦争に突入。1938(昭和13)年には国家総動員法が公布されました。国が戦争を遂行するため、紙類を含む全ての人材や物資を統制できるようになったのです。
こうして1940(昭和15)年、出版統制団体として日本出版文化協会(のちの日本出版会)が設立されます。出版社は日本出版文化協会から割り当てられた分の紙しか手に入れることができなくなりました。
そして1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発。あらゆる物資が軍へ優先的に回されるようになり、本や雑誌を制作するための紙の入手がさらに難しくなっていったのです。1940年代に発行された『JTB時刻表』(当時の誌名は『時間表』または『時刻表』)の場合、1940(昭和15)年10月号はA5判で336ページ。2年後の1942(昭和17)年11月号はA5判310ページで、26ページ減っています。
紙不足は戦局の悪化とともに、さらに深刻化。1943(昭和18)年11月号をもって月刊による発行が中止され、不定期刊に移行しています。1944(昭和19)年12月に発行された第5号は、一気に100ページ近く減って224ページになりました。これは紙不足のほか、軍需輸送を優先させるため旅客列車が削減されたことも背景にあるといえます。
このころには米軍による日本への空襲が激しくなり、そもそも時刻表通りに運行することが難しくなってきました。こうしたこともあって、1945(昭和20)年に入ると冊子型の『時刻表』の発行がストップ。終戦直前の7月、掲載路線を大幅に絞り、紙切れ1枚の『時刻表』を何とか発行できたといえます。
あれから73年が経過し、いまでは複数の出版社から多種多様な時刻表が発売されています。インターネット上の列車時刻検索サービスも充実しました。しかし、ひとたび戦争や大規模災害が起これば、物資不足や物流の途絶で時刻表の制作が難しくなり、ネットの検索サービスも電力制限などにより利用できなくなるかもしれません。戦時中に発行された時刻表のページ数の変化は、そのことをいまに伝えているといえるかもしれません。
【了】
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