「ジャリ電」から「ジャマ電」へ…復興のために走り抜けた東急砧線の昔といま

「ジャマ電」が廃止されて50年

 かつて関東大震災復興の砂利輸送のために走った砧線ですが、昭和初期になると、多摩川での砂利採掘自体に規制がかかります。砂利の採掘量が上流からの供給量を上回ってしまい、堤防の破壊やむ河床面の低下、水質汚染など、河川に様々な悪影響を及ぼすようになったからです。

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「花みず木通り(砧線跡)」にある砧線をあしらったマンホールのふた(2019年4月、河嶌太郎撮影)。
吉澤橋の中腹に設置されている、砧線の由来書(2019年4月、河嶌太郎撮影)。
吉澤橋の欄干に飾られている砧線のプレート(2019年4月、河嶌太郎撮影)。

 戦後復興においても砂利輸送は続けられましたが、1964(昭和39)年、多摩川での砂利採掘は原則として禁止されるようになります。こうして、「ジャリ電」としての役目は完全に終え、旅客輸送に専念するようになります。

 しかしその旅客輸送も、玉川通りの交通量の増大により、クルマの往来を阻害する存在として疎まれるようになっていきます。いつしかジャリ電と呼ばれていた玉電は、「ジャマ電」と呼ばれるようになっていました。

 そして1969(昭和44)年、玉電は廃止となり、バス転換されます。これは1977(昭和52)年に東急新玉川線が開通するまでの8年間続けられました。新玉川線は2000(平成12)年に田園都市線へと改称され、現在に至ります。しかし、砧線は復活することがなく、バス転換されたままです。「ジャリ電」から「ジャマ電」となり廃止された砧線は、すっかり歴史となろうとしています。

【了】

【写真】砧線の跡をたどる

Writer: 河嶌太郎(ジャーナリスト)

1984年生まれ。千葉県市川市出身。『週刊朝日』『AERA』などの雑誌のほか、「Yahoo!ニュース個人」「AERA dot.」「DANRO」「ITmedia」などのウェブで執筆。アニメを用いた地域振興からゲーム、IT、鉄道など幅広い分野を扱う。国内の鉄道路線の乗り潰しが趣味だが、災害による不通路線を残したまま数年が経過中。

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