栄光の「チーム・ロータス」とその黄昏 英の名門F1チームが日本企業ロゴをまとうまで

資金難とジャパンマネーの流入

 コーリン・チャップマンの死から5年後の1987(昭和62)年、初の日本人フルタイムF1ドライバーである中嶋 悟がチーム・ロータスよりデビューしたこの年から、同チームのマシンはアメリカのタバコメーカー、RJレイノルズ社のブランドである「キャメル」の黄色いスポンサーカラーをまとうようになります。日本では中嶋の動向と共にメディアへ広く露出したため、ロータスのマシンといえばこの黄色いカラーを思い浮かべるという日本人は多いかも知れません。

 ただし、この頃からチームの資金難が取り沙汰されるようになりました。そしてタミヤのギャラリーにあるもう1台のロータス、102Bが投入された1991(平成3)年には、前年を最後に離れた「キャメル」の代わりに、タミヤ、コマツ(小松製作所)など日本企業のスポンサーロゴが目立つようになります。バブル景気の終盤の時期にあたり、F1にも多額のジャパンマネーが流れ込んでいました。翌1992(平成4)年には、当時ドライバーを務めていたミカ・ハッキネンとジョニー・ハーバートが、シオノギ製薬(大阪市)のテレビCMに出演しています。

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タミヤ本社の「ロータス102B」は、いすゞのF1用エンジンをテストした車体でもある。
1975年シーズンを戦った「ロータス72E」のノーズ。「5」はR.ピーターソンの車番。
1992年シーズンに投入された「ロータス107」のノーズ。「11」はハッキネンの車番。

 それでも資金難が改善されることはありませんでした。それはそのまま、チームの戦闘力にも直結します。ハッキネンやハーバートが何度か入賞はするも表彰台からは遠ざかり、そして深刻な資金難を理由に1994(平成6)年、チーム・ロータスはF1を去ることになります。年間ノーポイント、つまりレースで上位6位(1959〈昭和34〉年以前は上位5位。いずれも当時のルールによる)に1度も入賞できなかったのは、37年間の参戦で最後の94年シーズンのみでした。

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ヴィタリー・ペトロフがドライブする「ロータス・ルノーGP」のマシン。同チームは2012年より「ロータスF1チーム」を名乗る(画像:David Acosta Allely/123RF)。

 その後2010年代に入り、F1に「ロータス」のチーム名が復活します。復活どころか、2チームが同時に「ロータス」を名乗り参戦するという、前代未聞の事態に陥ります。もちろん混乱をきたし訴訟沙汰にもなってしまいましたが、見方を変えれば、F1における「ロータス」という名前が大きすぎる証左といえるかもしれません。

 この騒動は2011(平成23)年シーズン中に収束、「ルノーF1」を前身とする「ロータス・ルノーGP」が翌2012年シーズンから少し名称を変え「ロータスF1チーム」として活動を継続しましたが、しかし2015年シーズンを最後に、「ロータス」の名はF1から再び消滅してしまいました。

【了】

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