戦没したはずが生きててビックリ! 戦火を耐え抜き2度国籍変更した流転の駆逐艦の航跡
米艦籍に復帰後、サンフランシスコに凱旋帰国
1944(昭和19)年に入ると、アメリカをはじめとした連合国軍の攻勢は激しさを増します。第百二号哨戒艇は船団護衛任務につくなかで、ときにはアメリカ海軍の潜水艦を撃沈するなど戦果も上げました。
そのようななか、年末の12月26日、シンガポールから九州へ向かう輸送船団の護衛についたことが、その後の運命を決定づけました。アメリカ潜水艦の攻撃を受けつつ、無事、福岡県の門司港につくと、これ以降は東南アジアに戻ることなく東シナ海や瀬戸内海で活動するようになり、大分県の佐伯港で終戦を迎えます。
1945(昭和20)年8月、終戦によって活動を終えた第百二号哨戒艇は、広島県呉に移動します。そこで日本に進駐してきたアメリカ軍に発見され、再びアメリカ海軍の艦艇として星条旗を掲げました。アメリカ海軍はスラバヤで沈めたと考えていたため、同艦が戦火を生き抜き、日本で残存していたことに驚いたそうです。
ただし、すでに「スチュワート」の艦名は、ほかの新造駆逐艦に付与されていたため、復帰しても艦名は戻されず単に「DD-224」と艦番号で呼ばれました。
同年11月8日に、「第百二号哨戒艇」改め「DD-224」はアメリカ本土に向けて日本を発ちます。しかし故障が頻発したため、途中から曳航状態となり、沖縄やグアム、ハワイなどを経由して翌1946(昭和21)年3月5日にサンフランシスコへ到着しました。
こうして24年ぶりにアメリカ本土に戻った駆逐艦「DD-224」、旧「スチュワート」でしたが、損傷が激しいため修理されることなく2か月後の5月23日に退役し、翌日の24日には、サンフランシスコの沖合において、戦闘機の訓練目標としてロケット弾の標的となり沈みます。
アメリカ本土到着後、すぐに廃艦になったものの、遠い異国の海で海没処分とならず、母国アメリカの近海に眠ることができたのは、同艦にとって幸運だったといえるのではないでしょうか。
【了】
Writer: 柘植優介(乗りものライター)
子供のころから乗り物全般が好きで、車やバイクはもちろんのこと、鉄道や船、飛行機、はたまたロケットにいたるまですべてを愛す。とうぜんミリタリーも大好き。一時は自転車やランニングシューズにもはまっていた。
現代の米軍だったら新造艦を建造できるコストを費やしてもスチュワートを復元して、凱旋鑑として海軍のシンボルにしたでしょうね。