今思うとありえない…? 首都圏の鉄道「当時は当たり前だった風景」5選
ようやく悲願達成、これから「当たり前」になっていく風景
利便性向上のための改良工事には、長い年月がかかったものもあります。近年その工事が完了し、まだ新鮮さが残るものの、これから新たな日常風景となっていくであろう例を紹介します。
地上を複線で走っていた、都内の小田急線
都内の小田急線は長らく、現在の京王線の明大前駅周辺のように、密集した住宅地を縫うように2本の線路が走る風景でした。朝夕のラッシュ時には、1本の電車の遅延があっという間に後続に波及していき、優等列車も前の電車を追い抜くことができず、ノロノロ運転は日常茶飯事となっていました。
1964(昭和39)年、東京都の都市計画により、代々木上原~和泉多摩川間の連続立体交差事業がスタート。しかし、沿線住民との調整などがスムーズに進まず、計画の具体化から事業着手まで、長時間を要することになります。
2002(平成14)年に梅ヶ丘~和泉多摩川間の高架化・複々線化が完了。それからさらに16年後の2018年に、東北沢~梅ヶ丘間の地下化・複々線化が完了しました。1989(平成元)年の喜多見~和泉多摩川間の着工以来、30年近くかかった複々線化がようやく実現できたのです。
複々線化完了後のダイヤ改正では、平日朝のラッシュ時で21本増、同夕夜の時間帯で39本増というすさまじい大増発が行われ、混雑率が緩和されるとともに、列車の定時性も大幅に向上することになりました。
【了】
上野東京ラインは東北新幹線工事が始まる前までは繋がってたんだが。
東京~上野が分断されていたのは1975~2015の40年間であって、それを「古き良き」っていうのは
違和感があるな。
ま、ライター若いから知らんのだろうけど。
知らんかった。
今でも似たようなケースは沢山残ってるけどな。
府中本町で接続してるのに環状線にならない武蔵野線と、南武線とか。
上野発着が基本の列車群の一部が東京駅だったり
常磐快速の乗り入れがあったり
品川駅臨時ホーム発の多客臨があったり
湘南日光なんていう観光目的の列車があったり…
新幹線工事絡みで列車線が切られるまでは、それなりにあったのだがなぁ…
東横線渋谷駅の今の方が、却って「ありえない(くらい不便で使いたくないし、北の方からやってくる車両もダサいし)」と思う。
> 1992年撮影、地上時代の小田急小田原線経堂駅。こじんまりした駅施設に、留置線も見える。牧歌的な風景。
経堂駅は「こじんまり」でもないし、1992年では「牧歌的」とは言えないように思う。
東急渋谷駅の階段は、風情があった。 地下鉄直通は便利だとは思うが、東横線は澁谷終点で良かったように思う。 都心直通・相模鉄道直通は、目黒線(昔は目蒲線)に任せて。
振り返るにはあと5年早い気がする記事
東横線の渋谷は潜って横浜はかなり深くなった。下北沢の乗り換えは別の経路を考慮したいほど不便になった。井の頭線から銀座線も遠くなった。京浜東北から中央快速へは東京でなく神田で乗り換えてる。下り東海道は東京では座れないので東北新幹線を大宮で降りて横浜方面への列車で空席にありついている。
最近では理解し辛くなってそうだが、1つの典型例としては駅の巨大化なんかがもっと共感を呼び易いんじゃないかな。
幾らバリアフリー化しても、総移動距離が飛躍的に遠くなったのは退化だわさ。
実家が井の頭線沿線で、平成前半に結婚するまで20年以上住んでいました。渋谷駅は二十数年前にマークシティが出来た頃から少しずつ、特にこの10年ぐらいで大きく変わりました。下北沢駅も同様。井の頭線の渋谷駅はマークシティが出来て駅が神泉駅寄りに移ったのに対し、他の路線は都心寄りか地下深くに移ってまるで井の頭線ユーザーを無視しているかのような不便な位置関係になりました。実家に住んでいた頃、特に小学生の頃は習い事や塾通いに東横線を使っていましたが、結婚後はまだ副都心線ができる前に横浜から当時住んでいた川越まで帰る時に乗ったぐらい。2015年に実家の母と渋谷駅で待ち合わせして都立大学駅近くのパーシモンホールに行った時、駅が物凄く遠く感じました。
東京モノレールから開業当初、眼下に大井埋め立て前の海苔の養殖風景が見えたり、
根岸線の関内より先の延これまた長区間開業時で、海?運河?に近いトコを走っていた、なんてのが
有ったらしい、ですね。