日本航空史「陰の立役者」日野熊蔵って誰? “日本初”になりきれなかったパイロットとは

日本初の飛行機の公式飛行から110年が経ちましたが、ここで「グラーデ式飛行機」のパイロットを担当したのが、日野熊蔵氏です。どのような人物だったのでしょうか。斬新なアイデアマンだった同氏が飛ぶまでの航跡を追います。

実は拳銃も開発していたアイデアマン

 2020年は、日本初の飛行機の公式飛行からちょうど110年の記念すべき年になります。1910年(明治43年)12月19日に実施された、この公式飛行で、「グラーデ式飛行機(臨時軍用気球研究会の公式名称)」、いわゆるハンス・グラーデ単葉機を操縦し、日本の空を飛んだ日野熊蔵氏とは、どのような人物だったのでしょうか。

 日野熊蔵氏は、現在の熊本県人吉市の出身。同氏は熊本英学校に籍を置いていたのですが、この学校はキリスト教系で、地元では先進的な学校として知られていたそう。先進の教育を受けたことが、その後の同氏に多大な影響を与えたのかもしれません。

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代々木公園にある日野熊蔵氏の銅像(柘植優介撮影)。

 日野氏はその後、学費のかからない旧日本陸軍の士官学校に進学、卒業後は歩兵科将校になり、旧日本陸軍技術審査部に異動します。そして、ここで自身の名を冠した日野式拳銃などを発明しました。このように、斬新なアイディアを持つ発明を得意とする傍ら、当時、エンジン(ピストンエンジンであるが)の開発にも携わっていたとされています。

 そのような技術将校としての素質が見いだされ、日野氏は1909(明治42)年、臨時軍用気球研究会の委員に任命されます。ちなみに、ほぼ同時に委員に任命されたのが、のちに「ファルマン式二層型飛行機」で日本初の公式飛行記録を立てることになる徳川好敏大尉でした。ふたりは、その後、飛行機の購入と飛行術の習得を命じられ、ヨーロッパに派遣されますが、徳川氏がフランスで機体2機の購入と飛行術の受講に専念していたのに対し、日野氏は、ドイツで機体2機を購入すると、ヨーロッパの航空技術の調査にあたり、操縦免許は取得していません。

 なお、ヨーロッパから帰国した後も、日野氏は自作飛行機の開発を続けていたようです。ただ、日野式拳銃の発明などもあり、徳川氏よりもマスコミに顔が売れていたようで、研究会が公式飛行を告知した後も、日野氏の方が注目を集めていたようです。

日野熊蔵氏が操縦したグラーデ式飛行機

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