日本初の実用ジェット機「T-1」のスゴさ YS-11の先輩 米英ソ+旧軍機の技術で豪州も注目
夢と消えた純国産ジェット機T-1の輸出バナシ
T-1ジェット練習機の特徴は、大きく3つ挙げられます。それは「スリムで軽い胴体」「厚く頑丈な後退翼」「癖のない操縦性と安全な離着陸性能」で、まさに練習機向きの機体といえる性能を備えていました。
T-1を用いた教育は1960(昭和35)年度からスタート。最初のころは故障が多かったものの、関係者の努力で改善されてからは好評で、後継のT-4ジェット練習機に交代する2000(平成12)年度までの40年間で約3000人のパイロットを育てました。
そして2006(平成18)年3月、飛行開発実験団(岐阜基地)と第5術科学校(小牧基地)に残っていたT-1Bも全機引退。これによりT-1練習機は48年の運用に幕を閉じます。
なお東京オリンピックの翌年1965(昭和40)年には、T-1に関して嬉しい知らせが舞い込んだこともありました。なんとオーストラリア空軍の練習機候補に選ばれたのです。この候補に挙がっていた他の機体は、イギリス製のホーカー「ナット」、スウェーデン製のサーブ105、カナダ製のカナディアCL-41、イタリア製のマッキMB326Hであり、その一角に含まれたことでT-1は世界水準の練習機として評価されたといえるでしょう。
様々な要因から、最終的にはイタリア製のマッキMB326Hが選ばれたものの、T-1は非常に高評価だったようで、オーストラリア調査団が試乗した際には非公式ながらT-1の最高速度を更新する珍事もあったといいます。
T-1は練習機という地味な機体ながら、航空自衛隊の主力戦闘機がF-86F、F-104、F-104、F-4、F-15と変わるなか、半世紀近く黙々とパイロットを育てた“名脇役”だったといえるのではないでしょうか。
【了】
Writer: リタイ屋の梅(メカミリイラストレーター)
1967年生まれ。「昭和30~40年代の自衛隊と日本の民間航空」を中心に、ミリタリーと乗りもののイラスト解説同人誌を描き続ける。戦後日本史も研究中。
各地の戦闘機部隊の連絡機は、現在T-4です。その前はT-33でした。入間基地の航空総隊に配備されていたのもT-33。T-1が配備されなかったのは、予算的なことでしょうか。
「ナット」はフォーランド社では。
それとも、ホーカー「ハンター」の間違いでしょうか?