「ぺろハチ」だと? 形勢逆転 日本機キラーと化したP-38「ライトニング」米軍エース愛用

第2次大戦のアメリカNo.1とNo.2の愛機になったP-38

 その結果、陸軍航空隊、海軍、そして海兵隊まで合わせた、アメリカ全軍におけるトップエースのリチャード・アイラ“ディック”ボング(40機撃墜)と、同第2位のトーマス・ブキャナン・マクガイア・ジュニア(38機撃墜)の両者ともP-38「ライトニング」に乗って、そこまでのスコアを叩き出しています。

 加えて、主に日本機と戦った太平洋戦域と中国・ビルマ・インド戦域だけで、ライトニングは約100人ものエースを生み出しています。かくして「ぺろハチ」は、偉大な日本機キラーに「大変身」を遂げたのでした。

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P-38「ライトニング」戦闘機に乗ったアメリカ全軍トップエースのリチャード・アイラ“ディック”ボング。最終階級は少佐(画像:アメリカ空軍)。

 ところで、ライトニングによって誕生したアメリカのトップエースとセカンドエースはその後、どうなったのでしょうか。

 まずはボング。アメリカ全軍トップの敵機40機撃墜の戦功などにより1944(昭和19)年12月には同国最上位の勲功章である「議会名誉勲章」が授与されると、本国に戻って戦時広報活動を行い、テストパイロットになりました。国としては、いわゆる「戦争のヒーロー」を戦死させる訳にはいかないという思惑もあったようです。

 ところがボングは、大戦終結直前の1945(昭和20)年8月6日、当時最新のジェット戦闘機ロッキードP-80「シューティングスター」の飛行テスト中、事故により殉職してしまいます。

 一方、セカンドエースのマクガイアは1945(昭和20)年1月7日、フィリピンのネグロス島上空において日本機に撃墜され戦死しています。一説では、ボングの撃墜記録に追い付くべく、P-38「ライトニング」にとっては不利な状況のなか、無理な空戦を日本機に挑んだのが敗因となったとも伝えられます。最終階級は少佐でした。

 アメリカが誇るトップエースとセカンドエースがともにP-38「ライトニング」戦闘機で誕生。しかしその2人ともが、第2次世界大戦の終結を待たずに事故死や戦死を遂げてしまったというのは、なんとも“死神の気まぐれ”を感じずにはいられません。

【了】

【写真】操縦桿ではなくハンドルで操作するP-38のコクピット

Writer: 白石 光(戦史研究家)

東京・御茶ノ水生まれ。陸・海・空すべての兵器や戦史を研究しており『PANZER』、『世界の艦船』、『ミリタリークラシックス』、『歴史群像』など軍事雑誌各誌の定期連載を持つほか著書多数。また各種軍事関連映画の公式プログラムへの執筆も数多く手掛ける。『第二次世界大戦映画DVDコレクション』総監修者。かつて観賞魚雑誌編集長や観賞魚専門学院校長も務め、その方面の著書も多数。

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コメント

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2件のコメント

  1. 子供の頃そんな形の飛行機が飛んでいた。廿(二十)の飛行機と呼んでいた。

  2. アメリカのエースパイロット2位のトーマス・マクガイアは日本陸軍の戦闘機 隼との空戦で4:1の勝負に敗れて戦死した。隼4機:P-38 1機では無い。P-38L 4機:隼1機の圧倒的優勢化でだ。
    一説によると大戦終結前に功を焦ったマクガイアは、敵を挑発する様にP-38の不得意な低空で飛行を行ったと言う。
    隼は大戦初期に実用化された戦闘機で、改良型とはいえ低速、武装の貧弱な旧式機だった。それでも低空での旋回性能は抜群で、アメリカのパイロット達は絶対に格闘戦を挑んではいけない機体と教えられていた。
    マクガイア本人も部下には常々厳しく言い聞かせていたが、この時は機数の優勢で敵を侮り2機撃墜という信じられない敗北となった。実際は途中から4式戦の支援(新人でマラリアに感染、しかも搭載した爆弾の投棄を忘れたまま戦った)があったとはいえ、機体の特性を無視した戦いを挑んだ結果、大戦末期の「ペロハチ」となってしまった。隼を追って急旋回した結果、失速して墜落したともいう。