「ぺろハチ」だと? 形勢逆転 日本機キラーと化したP-38「ライトニング」米軍エース愛用

第2次世界大戦直前にアメリカで生まれたP-38「ライトニング」戦闘機。双発双胴の単座機のため、一見すると鈍重そうですが、同機はアメリカ全軍の1位と2位の撃墜記録保持者が愛機としたそう。どのような点がよかったのでしょうか。

日本のあだ名「ぺろハチ」の由来

 ノースアメリカンP-51「マスタング」、グラマンF6F「ヘルキャット」、リパブリックP-47「サンダーボルト」、ヴォートF4U「コルセア」……これらは、工業技術大国アメリカが、第2次世界大戦中に生み出した著名な戦闘機です。

 しかし、同大戦におけるアメリカ全軍のトップエースとセカンドエースが愛用した機体は、これらのなかにはありません。2人のパイロットは、なんと「異形の戦闘機」として知られるロッキードP-38「ライトニング」を使っていたのです。

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アメリカ空軍博物館に保存・展示されているP-38L「ライトニング」戦闘機。L型はシリーズ最多の3923機が生産された型式(画像:アメリカ空軍)。

 1930年代中盤、アメリカ陸軍航空隊は、高性能化の一途をたどる各国の新型爆撃機を迎撃できるよう、高高度高速戦闘機を求めました。この要求に応える形でロッキード社が開発したのが、「モデル22」と呼ばれる双発高速機で、各種試験の結果、同機がP-38「ライトニング」として制式採用されました。

 P-38「ライトニング」は高々度迎撃戦闘機として開発されたものの、双発で航続距離が長いという特徴から、洋上飛行が多い太平洋戦域へ配備が進められ、第2次世界大戦では主に日本の戦闘機と戦うことになります。

 しかし初期型の「ライトニング」は、日米の空戦が多発したソロモン方面の戦いで、日本軍戦闘機が得意とするドッグファイトに引き込まれ、たやすく撃墜されてしまいます。

 その結果、日本側では同機を「ぺろハチ」と称することもありました。これは射弾を叩き込むと「ぺろっ」と「喰える」(撃墜できる) P-さんじゅう「ハチ」だからだといいます。ちなみに別の説では、「P38」の「P」を「ペ」と読み、「3」は書き方によっては平仮名の「ろ」に見えるため、ピスト(飛行場待機所)の黒板などに記された「P38」の文字が時に「Pろ8」と読めたことで「ぺろハチ」となった、という話もあるとのこと。

 さらに、この「喰える」というところから、P-38の特徴的なシルエットと引っ掛けて「メザシ」というあだ名なども付けられていました。

【写真】操縦桿ではなくハンドルで操作するP-38のコクピット

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コメント

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2件のコメント

  1. 子供の頃そんな形の飛行機が飛んでいた。廿(二十)の飛行機と呼んでいた。

  2. アメリカのエースパイロット2位のトーマス・マクガイアは日本陸軍の戦闘機 隼との空戦で4:1の勝負に敗れて戦死した。隼4機:P-38 1機では無い。P-38L 4機:隼1機の圧倒的優勢化でだ。
    一説によると大戦終結前に功を焦ったマクガイアは、敵を挑発する様にP-38の不得意な低空で飛行を行ったと言う。
    隼は大戦初期に実用化された戦闘機で、改良型とはいえ低速、武装の貧弱な旧式機だった。それでも低空での旋回性能は抜群で、アメリカのパイロット達は絶対に格闘戦を挑んではいけない機体と教えられていた。
    マクガイア本人も部下には常々厳しく言い聞かせていたが、この時は機数の優勢で敵を侮り2機撃墜という信じられない敗北となった。実際は途中から4式戦の支援(新人でマラリアに感染、しかも搭載した爆弾の投棄を忘れたまま戦った)があったとはいえ、機体の特性を無視した戦いを挑んだ結果、大戦末期の「ペロハチ」となってしまった。隼を追って急旋回した結果、失速して墜落したともいう。