三陸の鉄道「早々バスに」「8年かけ鉄道で復旧」なぜ分かれた? それぞれの軌跡と課題
東日本大震災によって、三陸沿岸を縦貫する鉄道は長期の運休を余儀なくされました。被災直後に地域を支えたバスの活躍、そして「鉄道ではなくバスで復旧」「時間はかかっても鉄道で復旧」と地域により道が分かれた復興の歩みを振り返ります。
震災直後 2011年3~4月の鉄道・バスはどうだったか
2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災により、東北の三陸地域の鉄道路線は軒並み運行不能に追い込まれました。特に被害が集中した宮城県、岩手県では、津波や地震による高架橋の落下や路盤の流出も激しく、被害の全容をすぐにつかむことすら難しかったといいます。
そのなかで岩手県宮古市に本社を構える三陸鉄道は、あらゆる交通手段が軒並み途絶した現状を目の当たりにし、3月13日に津波警報が解除された後すぐ、「まず運行できる区間の再開」を優先して調査を始めました。
結果、震災発生からたった5日後の3月16日には、北リアス線の陸中野田~久慈間、20日には宮古~田老間の再開にこぎつけます。燃料調達の経路も軒並み絶たれていましたが、19日には、早期の運行再開が困難と判断された南リアス線(釜石~盛)の車両基地から手動ポンプとドラム缶で軽油を移動させ、かろうじて再開区間の当面の必要分を確保したそうです。
また岩手県交通、岩手県北バスなど沿線の路線バス・高速バス事業者も、被災した人々が親類縁者を頼って沿岸部から内陸へ避難する動きに合わせ、他地域への移動確保に動きました。特別措置による緊急車両の指定を受けることで、3月16日には盛岡~宮古を結ぶ高速バス「106急行」が運行を再開します。東北新幹線の復旧が遅れるなか、18日には首都圏から宮古・山田などを結ぶ高速バス「ビーム1(ワン)」が運行を再開したことも、地域に大きな驚きを与えました。
一方で内陸部と沿岸部を結ぶ鉄道は、4月1日にJR大船渡線の一ノ関~気仙沼間が、6日にJR釜石線の花巻~釜石間が、13日にJR山田線の盛岡~宮古間が、それぞれ運行を再開します。この頃には自衛隊によるがれきの撤去作業に続く形で、多量の作業員とボランティアが必要となっており、鉄道による安定かつ多量な旅客輸送の復活は、各方面に大規模な人的支援をもたらすきっかけともなりました。
なお2011年4月に筆者(宮武和多哉:旅行・乗り物ライター)が釜石行きの快速「はまゆり」に乗車した際も、4両編成の車内は東北、関東、九州の自治体からの支援団体、寺院の信者団体などで埋め尽くされていました。
無知だとしかいいようがない。元々三鉄の実績は伸び悩んでいたし、料金が低いJRの実績が変わらないのは当たり前。鉄道とBRT以外の要素を含めないでこの記事を書いているように見える。道路の接続を考えると所要時間は課題ってほどではないし、三鉄も経営辞めるとは言えない状況。交通課題を論じるなら様々な要素を含めてください。
大船渡線BRTは鉄道と違うルートになり、上鹿折が切り捨てられてしまった。鉄道沿いに走らせられなかったのだろうか。