160万都市近郊から消えた「国鉄勝田線」残っていれば大化けした? 背景に路線バス
もし「西鉄宇美線」のままだったら?
九州北部の鉄道路線はおもに石炭運搬のために敷設されたものが多く、旅客の動線に沿っていないことが、エネルギー革命後の衰退を早めたケースも見られます。吉塚駅止まりだった勝田線もその一つで、天神・博多駅と直結するバス路線に旅客を奪われたのは否めません。
また志免町および宇美町で人口が増加したエリアは、勝田線に並行するものの、西に離れた県道沿いの地域がメインで、地下に坑道が多く残る鉱業所跡や、ため池などがある東側は、開発の余地が若干少なめです。さらにその北東側にはバスだけでなくJR香椎線や篠栗線もあり、鉄道路線としての勝田線の「伸びしろ」は、人口の増加分ほど見込めなかったのではないでしょうか。
なお筑前参宮鉄道によって開業した勝田線は、戦時中に鉄道5社を統合した現在の西鉄(西日本鉄道)が発足し、同社の路線「宇美線」として運行されていた時期があります。当時の西鉄は前身の一つである「九州鉄道」が目指した旅客輸送の強化を受け継いでいましたが、その後、宇美線と糟屋線(現・JR香椎線)は1944(昭和19)年に国有化され、戦後に西鉄へ戻ることなく現在に至ります。
炭鉱の関係もあって国の買収は避けられなかったかもしれませんが、仮に勝田線および香椎線が西鉄のままであれば、国鉄の経営難に巻き込まれることもなく設備の近代化が進んでいたのかもしれません。ほかにも、西鉄子会社の筑豊電気鉄道が構想していた直方~福岡市内の新線(現在のJR篠栗線に近いルート。1971年に免許失効)乗り入れによる市内直通や、免許取得のみで終わった勝田線の大宰府延伸、雑餉隈(ざっしょのくま)~博多間の新線など数々の構想が実現していた可能性もあります。
そうなると現在も非電化(ただし蓄電池車両を走行)単線の香椎線も含めて、福岡平野全体の鉄道のあり方が今とまったく違っていたのかもしれませんし、逆に近代化が進まない路線がまとめて早期にバス転換されていたかもしません。いずれにせよ、今となってはすべてが過去の話です。
【了】
Writer: 宮武和多哉(旅行・乗り物ライター)
香川県出身。鉄道・バス・駅弁など観察対象は多岐にわたり、レンタサイクルなどの二次交通や徒歩で街をまわって交通事情を探る。路線バスで日本縦断経験あり、通算1600系統に乗車、駅弁は2000食強を実食。ご当地料理を家庭に取り入れる「再現料理人」としてテレビ番組で国民的アイドルに料理を提供したことも。著書「全国“オンリーワン”路線バスの旅」など。
CO2、公害、交通事故、渋滞、人材難に目をつぶれば、バスで間に合わせることができる輸送量だということですね。鉄道路線があることによる需要の誘引効果を差し引いても。
「起点の吉塚駅はJR博多駅の北隣で、繁華街の天神エリアまでも2km強という距離です。勝田線の廃止が検討されている時期にも吉塚駅の近隣に福岡県庁が移転(1981年)したうえ…」という時点で、この筆者は福岡のことを何もわかってないと思った。天神から吉塚まで2km、といっても結構な距離で、路面電車なき今、乗り換えなしで行くにはバスしかない。また県庁が吉塚にあって、あたかも一大ビジネス街みたいに書いている節があるけど、県庁以外は住宅地で、かつ福岡空港のほぼ隣なのでビジネス街としての開発もできない(むしろ広い土地が欲しかった県庁だからこそ移転できたところはある)。
志免や宇美の人口が増えたのは、炭鉱が住宅地になり、そこに西鉄が天神までのバスを走らせ、それに加えて地下鉄が福岡空港まで開通したから。筑肥線の博多-姪浜を廃止して、地下鉄と相互乗り入れをしたように(この筆者はそれを知らないのかな?)勝田線も一部を廃止して地下鉄と相互乗り入れをしたら状況は違っていただろうけど、戦前の鉄道計画を元に話されても、何の話?としか思えない。
偶然この記事を見つけて読みました。貴見にほぼ賛同します。大都市近郊路線で廃止される場合の理由は道路事情とターミナルの位置です。鉄道線敷設後のモータリゼーションと道路整備で平面交差(踏切)が交通障害となり、廃止がむしろ望まれた例なら同じ福岡県内の香月線が例に挙げられ、ターミナル駅の位置問題であれば、札幌市の定山渓電鉄が挙げられると思います。