「墓地電車」から始まった阪急千里線100年の激変 一時「京阪電車」だったことも 続く進化
阪急電鉄の千里線が開業100周年を迎えました。開発の経緯から「墓地電車」とも呼ばれていたこの路線は、その後「万博の会場輸送」「日本初の自動改札機導入」など、他の路線にはない数々の「日本初」を経験しつつ今に至っています。
前身は別会社、「墓地電車」とも
大阪市街と北の千里ニュータウンを結ぶ阪急千里線が、1921(大正10)年に最初の区間が開業してから100周年を迎えました。様々な記念イベントは新型コロナウィルスの影響で大幅な縮小を余儀なくされましたが、阪急電鉄ではヘッドマーク掲出やグッズの発売などで、ささやかながら祝賀ムードを醸し出しています。
100年前に開業したのは、現在の京都線の区間を含む十三~淡路~豊津間(半年後に千里山まで延伸)です。このときは阪急ではなく、北大阪電気鉄道という別会社の路線でした。この北大阪電鉄、当時は「墓地電車」とも呼ばれていました。
現在の千里線やニュータウンがある場所は、100年前には広大な森や竹藪が広がるのみだったといいます。当時、北大阪電鉄は千里山駅の北側に10万坪もの公園墓地を計画していたほか、もともと里山で墓地も多かったことが、墓地電車なる異名の由来です。
霊園と鉄道といえば、同時期にはニューヨーク・ウッドローン墓地への地下鉄乗り入れがあったほか、東京では多摩鉄道(現・西武多摩川線)の多摩墓地前駅(現・多磨駅)が霊園の分譲と鉄道の乗客増に貢献するなどしており、この時代におけるビジネスモデルのひとつだったといえます。
しかし北大阪電鉄の場合、公園墓地の計画をほどなくして宅地開発へ変更し、イギリスのレッチワースをモデルとした「千里山住宅地」の整備を進めました。結果、住環境を求め大阪の中心部から移転する人で、瞬く間に区画が埋まっていきます。
北大阪電気鉄道は阪急(当時は阪神急行電鉄)と十三駅で接続していたこともあり、車両保守を委託するほど密接な関係を保っていました。しかし延伸計画でもたついているうちに、淀川北岸への進出を目論んでいた京阪電気鉄道が、仲介役として五島慶太(のちの東急グループ総帥)を擁立して同社の買収にかかります。
その後、京阪電鉄がグループ会社として設立した新京阪鉄道へ北大阪電鉄の路線が譲渡され、新京阪により路線も延伸したことで、いまの千里線・京都線の原型が完成しました。戦時中には阪急・京阪の統合が図られたため、戦後、京阪は改めて独立しましたが、千里線を含む京都線系統は阪急の路線となり現在に至っています。
何ですか有名人って
> その中でも阪急は千里山から新千里(現・南千里)を経て、箕面線の桜井駅まで…
「新千里」ではなく「新千里山」です。
ご指摘ありがとうございます。修正しました。
昭和40年代に当時は黎明期だった日本の自動改札機を育て上げた町、か。
歴史ロマンですね。