幻になった「京阪電車の梅田行き」 いまなお残るその痕跡(写真11枚)

関東の地震が京阪の構想に影響

 まず1922(大正11)年4月までに、新京阪線の上新庄から梅田の少し手前にある葉村町(現在の大阪環状線・大阪~天満間のほぼ中間)までを結ぶ梅田線と、京阪本線の森小路付近から天神橋(現在の天神橋筋六丁目駅付近)までを結ぶ城北線、さらに梅田線と城北線が交差する赤川で両線を接続する連絡線の営業が許可されました。

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JRの大阪環状線・桜ノ宮~京橋間にある「京阪電鉄乗越橋」。橋桁の下に京阪線の線路が整備されることはなかった(2018年11月、草町義和撮影)。

 同年10月には、京阪電鉄が新京阪線を運営する子会社「新京阪鉄道」を設立。京阪電鉄と新京阪鉄道が分担して、それらの路線を建設することになったのです。

 このうち梅田線のルートは、上新庄から南下して桜ノ宮付近で城東線の下をくぐり、地上線敷地につなげるルートで整備することに。そこで城東線の高架化工事では、京阪電鉄をまたぐための橋りょうも建設することされることになりました。

 しかし、梅田乗り入れプロジェクトは順調には進みませんでした。

 1923(大正12)年に関東大震災が発生すると国は財政難に陥り、城東線の高架化プロジェクトが凍結されました。城東線を高架化できなければ、京阪本線や新京阪線が梅田に乗り入れるための土地も確保できません。

 そこで新京阪鉄道は、現在の阪急京都線、阪急千里線の十三~淡路~千里山間を運営していた北大阪電気鉄道に目を付けます。同社は現在の阪急千里線・天神橋筋六丁目(天六)~淡路間の建設を計画していましたが、新京阪鉄道はこの計画を譲り受けたうえで、淡路駅から新京阪線に合流するルートの新線計画を追加。梅田乗り入れのめどがつくまでは天六にターミナルを設け、天六~淡路~京都方面のルートで新京阪線を建設することにしたのです。

 1928(昭和3)年に入ると、城東線の高架化プロジェクトが再開。同年8月には梅田線の葉村町から現在の阪急百貨店うめだ本店付近までの区間も営業が許可され、ようやく梅田乗り入れのめどがたちました。11月には天六にターミナルを設けた新京阪線も開業します。

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コメント

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2件のコメント

  1. 土地勘がない人間にとって、この記事は読みにくい。
    文章の合間に地図をのせてくれた方がもっと読みやすくなるのでは?

  2. ほお