日本の洋式トイレは旧海軍の戦艦が始まり!?「艦内トイレ」から見た水洗便所の歴史
外国に軍艦を発注したら洋式トイレがついてきた!
明治時代には旧日本海軍が創設されましたが、日本には大型艦を建造する技術がありませんでした。そこでヨーロッパやアメリカに発注したわけですが、外国人が設計したので当然ながら艦内トイレは洋式でした。
日露戦争で連合艦隊の旗艦だった戦艦「三笠」は、イギリスで建造され、1902(明治35)年に就役しましたが、同艦の元水兵が厠(かわや)について証言を残しています。それによると、「三笠」のトイレは洋式といってもポンペイの遺跡と同じベンチ式で、違いは隣との間に申し訳ていどの衝立があるだけでした。和式でしかも個室に慣れた日本人の乗組員に、これはとても不評だったといわれています。
なお、船にとって貴重な真水を節約するため、トイレの水洗や風呂には海水を使うのが普通でした。
日露戦争後には、ようやく日本でも戦艦が建造されるようになりました。ちなみに、第1次世界大戦が始まった1914(大正3)年には、東洋陶器(現TOTO)の前身である日本陶器社の製陶研究所が、国産初の洋式水洗便器の製造を始めています。
この直後の1920(大正9)年に、広島県の呉海軍工廠で当時、世界最大であった戦艦「長門」が竣工しました。「長門」の設計にあたっては、乗組員のあいだで洋式トイレが不評だったことから、その意見を取り入れて、艦内の厠には和式と洋式の両方の水洗トイレを設置しています。
なお、これらトイレは個室でしたが、壁や扉は現在のような密閉式ではなく、しゃがんで用を足している乗組員の顔と体が隠れる程度の高さしかなく、足元は丸見え状態でした。つまり誰かが入っていれば、外からわかる構造というわけです。
小用はイギリスで建造された「三笠」以来、変わっておらず、床から少し高くなったステップがあり、壁に向かって用を足したら下の溝を流れて排水されるようになっていました。いまでも街の片隅などで昭和時代に作られた古い公衆便所が残っている場合、小用がこういった構造のことがあるため、見たことがある人も多いでしょう。
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