青函連絡船はなぜ爆撃されたのか 戦時の鉄道と津軽海峡越え その知られざる“戦い”

ついに来た「戦争の大動脈」の終わり

 第五青函丸型は、1944(昭和19)年に就役したのを皮切りに次々と青函連絡航路へ就航しました。ネーム・シップである「第五青函丸(W1)」は、戦争末期の1945(昭和20)年3月6日に青森港の防波堤へ衝突し沈没しますが、同年にかけ青函航路は上下線で客船を含め36便を数えるまでになります。

 青函連絡船における石炭の輸送量を見てみると、1942(昭和17)年度に4万3390トンだったものが、1944(昭和19)年度には147万2070トンにまで増加していました。さらに1945(昭和20)年には、年度初めの4月に11万2965トン、5月に13万4626トン、6月には13万3827トンへ増加。「柔いフネ」による青函航路は北の大動脈をよく支えていたのがわかります。

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函館駅裏の青函連絡船記念館摩周丸。かつては線路が埠頭まで延び、専用桟橋で車両航送が行われていた(画像:写真AC)。

 しかし、この年の7月14日から翌15日にかけて、アメリカ第3艦隊の高速空母機動部隊による青森・函館両港を標的とした、青函航路への空襲が行われます。これにより青函航路は壊滅的な打撃を受けてしまいました。「松前丸」「翔鳳丸」「飛鸞丸」「津軽丸」など10隻が沈没および大破座礁し、傷を負いながらも沈まなかったのは「第七青函丸(W3)」「第八青函丸(W4)」のみ。また石炭輸送の補助であった機帆船282隻も同時に撃沈・撃破されています。

 敗戦ちょうど1か月前、戦時の国内産業をどうにか支え続けてきた「北の大動脈」はついに断絶したのです。兵器生産の要であった石炭を運ぶ青函連絡船の終わりは、日本の戦争の終わりでもあったといえるでしょう。

【了】

【貴重】“戦時標準型”の青函連絡船(写真) 航送設備がオープンだった

Writer: 樋口隆晴(編集者、ミリタリー・歴史ライター)

1966年東京生まれ、戦車専門誌『月刊PANZER』編集部員を経てフリーに。主な著書に『戦闘戦史』(作品社)、『武器と甲冑』(渡辺信吾と共著。ワンパブリッシング)など。他多数のムック等の企画プランニングも。

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