戦車のようで戦車じゃない 戦車の代わりに歩兵を助けた“豆戦車”「九四式軽装甲車」
主力戦車の穴を埋めた小さな「功労者」
TK車は1935(昭和10)年には「九四式軽装甲車」と改称され、全国各地の歩兵連隊や戦車連隊および騎兵連隊に配備されて“豆戦車”の愛称で親しまれました。なお、この書類上の「軽装甲車」名も、軍隊という縦割り組織の中で、主力戦車に忖度した日本らしい結果だと筆者は思います。
日中戦争が始まった1937(昭和12)年には、旧日本陸軍の12個師団に各1個ずつ独立軽装甲車中隊(定数17両)が創設されており、広大な中国戦線において数少ない装甲車両として重用されました。八九式中戦車の手薄な戦線では直接戦闘を行う軽戦車として投入され、南京攻略戦では城門に迫る九四式軽装甲車隊の姿が報道されて“豆戦車”の名前は国内でも広く知られます。そして太平洋戦争が始まる前年の1940(昭和15)年までに843両が生産されたのでした。
しかしアメリカとの戦争が始まる頃には、TK車の薄い装甲では次々と対戦車砲に撃破されてしまうようになり、機関銃1挺だけの貧弱な武装では歩兵相手にしか通用しなくなっていました。こうして防御力、攻撃力の双方で太刀打ちできなくなったTK車は、次第に37mm戦車砲を搭載した九七式軽装甲車や九五式軽戦車に置き換えられていきます。
それでも軽装甲車部隊の多くは、後に機材を九七式中戦車に交換しながら戦車連隊に改編されていったことから、“豆戦車”は旧日本陸軍が戦車部隊を拡充するにあたって、その乗員育成の素地を作ったといえます。さしずめ、新たな戦車部隊誕生の「ゆりかご」的な役割を果たしたとも言えるのではないでしょうか。
【了】
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
「完成したTK車の装甲は、全溶接構造」とのことですが、写真とイラストからはリベットの頭が見えます。
海軍に比べると陸軍の方が装甲板の溶接に対して積極的だったと(手塚敬三さんから)聞いていますが、仮制式の段階から砲塔・車体全体に溶接構造を取り入れていたのでしょうか。
この後、五式戦車の砲塔などには全溶接が採用された可能性があります。