戦争を生き抜いた唯一の戦艦 巨大で俊足「長門」が竣工した日
旗艦の座を「大和」へ譲る
「長門」が本格的な戦線に参加するのは太平洋戦争からです。連合艦隊の旗艦として第一戦隊に所属し、開戦の契機となったハワイ・真珠湾への攻撃命令「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文を打電したのはよく知られています。
しかしこの頃、「長門」を凌ぐ巨大戦艦「大和」が就役すると、旗艦の座を「大和」へ明け渡します。「長門」は1942(昭和17)年6月のミッドウェ―海戦後には第二戦隊へ移管され、以後は日本本土で待機することが多くなります。1944(昭和19)年10月にはレイテ沖海戦にも参加しますが大きな活躍はできず、以後人員輸送や給油活動が主な任務となりました。
そもそも1940年代にもなると、海戦の在り方は空からの攻撃を主体としたものに移行していました。「長門」には、巨大な主砲を活かし敵艦を撃沈するという当初から想定されていた戦果を挙げる機会は訪れなかったのです。
そして迎えた1945(昭和20)年8月の終戦。「長門」は空襲により中破してはいたものの、日本海軍で唯一生き残った(航行可能な)戦艦となりました。
戦後、「長門」はアメリカに接収されます。1946(昭和21)年3月、アメリカの核実験の標的艦となるため、「長門」はマーシャル諸島ビキニ環礁に向けて出港しました。
7月、アメリカの戦艦「ネバダ」や日本の軽巡洋艦「酒匂」などとともに被爆。2回にわたる大爆発を受けますが、「長門」の姿はなお洋上にあったとされます。
しかし翌日の夜、誰にも知られることなくひっそりと沈没しました。爆発の衝撃からゆっくりと浸水が広がっていたものと推定されています。翌朝、関係者が確認すると、すでに洋上に「長門」の姿はなかったそうです。
「長門」が沈む海は現在、沈没船が多いことから有名なダイビングスポットになっています。戦前に「世界のビッグ7」と称された戦艦は、海底とはいえ今も見られるのです。
【了】
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