本当に「棺箱」? 真珠湾で活躍も超不名誉な称号 ダラリ脚艦上機「九九艦爆」実際の所
超不名誉なニックネームはなぜついた?
九九艦爆のスペックは、最高速度が時速400km程度。時速500km以上を出すことが出来た零戦と比べても、アメリカの戦闘機からみれば「九九艦爆=足の遅い軍用機」に映ったでしょう。
また、零戦もですが、開戦前の旧日本軍による軍用機の要求仕様では、機体の軽量化により速度、搭載量が重視されました。そのため、装甲板は最小限で、燃料タンクへの防弾も考慮されていなかったのです。防御力は無いに等しかったと言えます。
そして、太平洋戦争中期には、アメリカ軍も性能の高い戦闘機を投入した一方で、日本は後継機となる「彗星」の開発が遅れ、スペックの劣る九九艦爆で出撃しなければならない状況が続きます。――「窮窮式(九九式)棺箱」の名前は、そのようななか、搭乗員から自虐を込めて生まれたものだそうです。
日本ではよく聞く話のような気がしますが、上層部が長期的な視野に欠けたばかりに、そのしわ寄せが、懸命に戦う現場(搭乗員たち)にくるという、悲しき実例のひとつといえるでしょう。
ただ先述のとおり九九艦爆は太平洋戦争前半でそれなりの成果を挙げています。一定の条件下であれば、「窮窮式棺箱」は結果を出すことのできる“隠れ名機”なのかもしれません。
九九艦爆は、いまや日本国内はもとより、世界を見渡しても機体の一部だけが残っているだけです。先の真珠湾にあるパールハーバー航空博物館にも、九九艦爆の展示機はありません。ただ、将来、この“隠れ名機”がどこかの水底から見つかるといいな――と筆者(種山雅夫、元航空科学博物館展示部長 学芸員)は考えています。
【了】
※誤字を修正しました(12月8日11時45分)。
Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)
成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。
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