大統領の鶴の一声で誕生「インディペンデンス級軽空母」1年で9隻就役 最後の艦は50年現役!
30ノット出る快速性がプラスに
船体が小さいため、インディペンデンス級の搭載機数は33機から45機。これに対して、エセックス級のそれは100機オーバーとなります。しかしレーダーなどの電測兵器は同等のものを備え、最大速力も同じ約33ノット(約61.1km/h)なので、エセックス級との混用が可能でした。この点が、貨物船や油槽船をベースにした小型の護衛空母と最も異なっていた、一番の特徴といえるでしょう。
速力が早く、レーダーなども同じものを積んでいることから、「標準型艦隊空母」の補助として空母機動艦隊に加わることができたのです。しかし、船体が小さいせいで、船としての荒天下での運用は、標準型艦隊空母と比べて難しい部分はあったようです。また同様の理由で飛行甲板も狭小なため、離着艦事故の発生率もやや高かったといわれています。
とはいえ、インディペンデンス級は標準型艦隊空母を支えてよく戦いました。また、旧日本軍の航空攻撃を受けて大破し、味方の手により海没処分された「プリンストン」以外の8隻は第2次世界大戦を生き抜いています。
8隻のうちネームシップの「インディペンデンス」は、1946(昭和21)年に南太平洋のビキニ環礁で行われた水爆実験「クロスロード作戦」において標的艦として用いられ沈んだものの、いくつかの空母は朝鮮戦争に参加したり、フランスやスペインに供与されたりして戦後も軍艦として使われ続けました。
なお、スペインに供与された「カボット」は「デダロ」に改名のうえ、同国海軍の旗艦などを務めて1989(平成元)年8月まで運用されています。その艦歴は46年にもおよんでおり、ここまで長らく第一線で使われ続けると、もとが戦時改造の軽空母だったとは思えないほどです。
当初はその能力が疑問視された軽巡洋艦改造の艦隊軽空母でしたが、「大柄の兄貴分」といえる標準型艦隊空母と伍して、熾烈な太平洋戦争を見事に戦い抜き、アメリカ海軍の勝利に貢献した「功労者」であったといえるのではないでしょうか。
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Writer: 白石 光(戦史研究家)
東京・御茶ノ水生まれ。陸・海・空すべての兵器や戦史を研究しており『PANZER』、『世界の艦船』、『ミリタリークラシックス』、『歴史群像』など軍事雑誌各誌の定期連載を持つほか著書多数。また各種軍事関連映画の公式プログラムへの執筆も数多く手掛ける。『第二次世界大戦映画DVDコレクション』総監修者。かつて観賞魚雑誌編集長や観賞魚専門学院校長も務め、その方面の著書も多数。
太平洋戦争開戦前の、アメリカ海軍空母機動部隊の勢力といえば、日本海軍の空母部隊と比肩する程度のものでした。赤城、加賀に比肩するのは、レキシントン・サラトガ、瑞鶴・翔鶴に比肩するのはエンタープライズ・ヨークタウン、飛竜・蒼龍に比肩するのは、ホーネット・ワスプ、あと、龍驤に匹敵するのが、レインジャー、、量において、互角、搭乗員の技量において、日本側の優勢といってとこでしょうか。所詮は、国力の差が全てでしょう。アメリカ海軍も戦前は、大鑑巨砲主義で、4万トンクラスの大戦艦を多数建造する計画を立てていました。大戦中もこれらの戦艦の建造は中止されることなく、追加する形で、高速空母艦隊の大量建造や、護衛空母の大量就航、潜水艦、駆逐艦、巡洋艦などのあらゆる範囲の艦艇を建造・就航させる国力と、技術力、労働力や、それらを支える豊富な資源が、アメリカにはありました。その巨大さが全く欠けていた日本が、アメリカ相手に戦争をすることが元々無謀で無理なことだったのです。山本五十六の戦前の言葉が全てでした。「アメリカ相手に戦争をすれば、日本はアメリカにかすり傷ぐらいは追わせられるだろうが、仕返しに、日本はアメリカによって一刀両断にされてしまうだろうと、、、」史実は、その通りになりました。