東急田園都市線 幻の「蛇崩川ルート」とは 桜新町~用賀で「大回り」になった事情
「オリンピック道路」の段取りに翻弄
1961(昭和36)年8月、ひとまず「蛇崩川ルート」に「地元と調整する」という補足付きで、施工認可が下りましたが、国道246号の拡幅工事は既に着工し、どんどん進行している状況でした。オリンピックを3年後に控え、駒沢公園のオリンピック会場までの輸送路として、必ず間に合わせる必要があったからです。
まず、駒沢~瀬田の「バイパス区間」は、既に拡幅工事が完了。この地下に鉄道を通すのは現実的ではなくなりました。さらに用地買収の遅れなどで道路工事のスケジュールに余裕がほとんど無い状態となっており、「蛇崩川ルート」で道路工事と同時施工を行うのはほぼ絶望的になってしまいます。
このため、地元要望と都の意向を完全に受け入れる形で、「渋谷~三軒茶屋~駒沢は全線地下で国道246号の真下を走り、その先は地下線工事ができないため、国道246号から外れて、旧道を迂回する」という現在のルートに最終決定となりました。
その後、国道246号の上空に首都高渋谷線が建設されることになり、新玉川線はこれと一体で工事が行われることとなりました。そうして東京オリンピックから13年後の1977(昭和52)年、悲願の新線はついに開通を迎えるのです。
玉川線時代を知る人にとっては、新玉川線(田園都市線)は、「単に路面電車を地下化した」と思えるかもしれません。しかしその裏では、オリンピック前の開発ラッシュのなか、さまざまな紆余曲折を経てルートが決定されていたのです。
【了】
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