道路の田園都市線? 幻の「東急ターンパイク」計画とは 五島慶太の描いた交通社会

計画はその後どうなった?

 東急の計画に対し、地元は「一刻も早く、電車を溝の口から中央林間まで開通させてほしい」と陳情をを行います。1958(昭和33)年に行われた署名運動では1万3629名の署名が集まったそうです。

 いっぽう国も時を同じくして、高速道路の建設に本腰を入れていきます。1957年に日本道路公団が設立されましたが、その当時の整備計画には、東京と横浜をむすぶ3本目の幹線道路「第三京浜道路」が含まれていました。

 勘付いた人もいるかもしれません。その経路は、東急ターンパイクとほとんど似たルートとなっていました。

 建設省としては「国道に匹敵する道路は無料が原則で、一時的に有料にするとしても、それを建設し経営するのは、公共企業体であるべき」というポリシーがあったようです。東急は建設省の意向を受け入れ、結局この東急ターンパイク構想を断念することにしました。1961年12月のことでした。

 あわせて湘南ターンパイクも、現在の西湘バイパスとやはりルートがほぼ一致したため、計画を断念。残ったのは箱根ターンパイクのみで、こちらは1965(昭和40)年に開通。現在はNEXCO中日本の子会社になっています。

 ちなみに、東急ターンパイクの計画が廃止になったことで、交通アクセスを失った港北ニュータウンの区域は「多摩川西南新都市計画」から除外されることになりました。

【了】

【壮大!「東急ターンパイク」計画の全貌を見る】

最新記事

コメント

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシー利用規約が適用されます。

1件のコメント

  1. リモートワークのない時代に、住民が都心までクルマで通勤していたら、駐車場が全く足りなかったことでしょう。