見事復元「九七艦攻」に描かれた機番の意味 兵庫「鶉野」と北条鉄道が伝える戦争の記憶
沖縄への出撃と還らぬ若者たち
姫路海軍航空隊において特攻隊を構成した搭乗員は、教官であった第13期予備学生と練習生であった第1期予備生徒および甲種12期と乙種18期の予科練生で、まだ18歳の若者から大学生ぐらいの青年たちがほとんどでしたが、その中で目立ったのは39歳の最年長であった佐藤 清大尉でした。
分隊長でもあった佐藤大尉は以前から空母「加賀」に乗り組むなどしており、太平洋戦争中もフィリピンや西太平洋を転戦したベテランの艦攻乗りでしたが、若者だけに任せては海軍幹部として示しがつかないという気概から、特攻隊を志願したといいます。
彼は、1945(昭和20)年4月6日に鹿児島県の串良基地から沖縄に向けて出撃した第一護皇白鷺隊の隊長を務めましたが、この度、「soraかさい」に展示された原寸大レプリカである九七艦攻一号の垂直尾翼に書かれた「ヒメ-305」マークは、そのとき佐藤大尉が乗っていた愛機を再現しています。
姫路海軍航空隊には、それ以外にも逸話があります。それより前の3月23日朝、姫路海軍航空隊に残っていた稼動全機の九七艦攻約20機が沖縄方面への特攻作戦として、中継基地である大分県の宇佐海軍航空隊に向けて一斉に離陸を開始したときです。1機が編隊を離れて基地北方において低空で何度かバンク飛行をしてから、再び合流して飛び去りました。
この機体は教官であった大岩虎吉少尉の搭乗機。彼は中央大学法学部の在学中に司法試験に合格し、学生結婚までしていました。そのため、奥さんと二人の子供への最後の挨拶を九七艦攻の機上から行ったといわれています。
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