激怖愛称の爆撃機「デストロイヤー」が何も“破壊”できなかったワケ 最後は珍改造
デビュー後の「デストロイヤー」…なぜトホホ機に?
こうしてデビューしたBTD「デストロイヤー(破壊者)」艦上爆撃機は当初350機近くの発注を獲得しましたが、実際の生産機数は30機弱にとどまっています。
この理由としては、太平洋戦争の終結に目途がついたことはもちろん、BTD「デストロイヤー」を手掛けた名設計者、エド・ハイネマン氏によって、「デストロイヤー」の流れを汲む新型爆撃機「XBT2D」が、その直後に開発スタートとなったことが挙げられます。
なお、「XBT2D」は、のちにA-1「スカイ・レイダー」と名付けられ、レシプロ艦上攻撃機の傑作機となり、3000機以上が生産されることになります。ちなみに、こちらの愛称「スカイ・レイダー」の意味は“空賊”。ただ、同機は当初「デストロイヤーII」と呼ばれていたそうです。まさにその意味ではBTD「デストロイヤー」は、「失敗は成功の始まり」のような飛行機だったのかもしれません。
A-1「スカイ・レイダー」の影に隠れてしまい、生産も少数機のみにとどまったBTD「デストロイヤー」は、“同機が戦闘行動をとる姿を見た人はいない(None saw combat action)”という記録もあるほど、残念な結果となってしまいました。
ただ、BTD「デストロイヤー」ではとある珍しい“改修”が検討されたことがあります。同機に搭載されているプロペラ駆動のレシプロエンジンに加え、コックピットの後ろから斜めに貫くようにターボジェットエンジンを追加搭載して混合動力化したもので、「XBTD-2」と名付けられ1944年5月に初飛行しました。ただ、速度の増加がほとんど見込めなかったほか、たとえばエンジン排気の熱で飛行甲板を傷める可能性があるなど、設計上問題があった、こちらの計画も破棄されてしまいました。
【了】
Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)
成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。
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