実物デカッ! 鹿屋に残る旧海軍「二式大艇」は何がすごかったのか レガシーは海自US-2へ

戦闘機も撃退した攻撃力

 こうして誕生した二式飛行艇は、その巨体ゆえに「二式大艇」とも呼ばれました。性能は、優れた機体設計と、爆撃機用の高出力エンジンである三菱「火星」を4基搭載したことで、全長28m、全幅38mの大型機にも関わらず、一二型で最高時速470km/hに達したほか、主翼や胴体各部に設けられた計14個の燃料タンク(合計1万7千リットル)により航続距離も最大で8000kmを超えるなど、まさに陸上爆撃機に比肩する高性能を有していました。

 そのため、優れた飛行性能を活かして太平洋上での攻撃や偵察、救難、気象観測などに多用されただけでなく、輸送型「晴空」も36機作られて南方での物資や人員の輸送に用いられています。

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太平洋戦争中、洋上を飛行する二式飛行艇。胴体上部や前後に20mm機関砲各1門を搭載した動力銃座が見える(吉川和篤所蔵)。

 また、当時の飛行艇としては強力な武装も特徴のひとつでした。大口径の20mm機関砲5門を機体前後や上部の動力銃座、上側面左右の銃座などに配置しており、加えて7.7mm機関銃4挺(内3挺は予備)を備えていたほか、主翼下に爆弾2tまたは航空魚雷2発(17号機まで)を搭載可能でした。この武装でアメリカ軍機ともたびたび空中戦で渡り合い、時にはB-25双発爆撃機やB-17四発爆撃機を返り討ちにしたこともありました。

 特筆すべきは、1943(昭和18)年11月のケースでしょう。南太平洋戦域でアメリカ陸軍のP-38双発戦闘機3機に襲われた二式大艇は、エンジン2基が停止して1名の負傷者を出しながらも敵機1機を機関砲射撃で撃退、辛くも基地に帰り着いています。

 しかし、いくら重武装の二式大艇でも太平洋戦争末期になりアメリカ側に制空権を握られるようになると、敵戦闘機の餌食になることも増えます。また、その巨体ゆえに敵機から隠れたり移動したりするにも、他機と比べ準備が掛かることから、空襲などでも失われることが多くなりました。

 結局、1945(昭和20)年8月の終戦時における稼動機は、二式大艇5機と輸送機型の晴空6機の11機だけでした。しかも、さらに数日のうちに8機が処分や事故で失われてしまいます。こうして、戦後アメリカ軍が引き渡しを求めた際、残っていたのは、香川県詫間海軍航空隊の3機だけになっていました。

【激レア写真】鹿屋に保存・展示される二式飛行艇の内部の様子ほか

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コメント

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2件のコメント

  1. 世界で唯一?
    お台場の二式大艇は何?

  2. 先ほどは失礼いたしました。鹿児島に移動していたのですね。