空戦が一変! 60年前の緊迫「第2次台湾海峡危機」で米国が台湾に与えた“切り札”とその影響

いまから60年ほど前に起きた第2次台湾海峡危機はジェット戦闘機による空中戦のターニング・ポイントでした。初めて空対空ミサイルが実戦投入され、多くの戦果を挙げたことで、空戦の概念が一変したのです。

朝鮮戦争の教訓から誕生したF-104

 第2次世界大戦が終結して5年後の1950(昭和25)年から1953(昭和28)年にかけて起きた朝鮮戦争は、本格的なジェット機時代に入ってから初めて勃発した正規戦です。この戦争では、アメリカのF-86「セイバー」とソ連のMiG-15がジェット戦闘機として初めて対峙した戦訓を基に、新たな空中戦の形が模索され始めました。

 では、その次に空中戦の歴史に大きな影響を与えた1958(昭和33)年の「第2次台湾海峡危機」を見てみましょう。

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朝鮮戦争中に韓国の水原(スウォン)航空基地で出撃準備をするアメリカ空軍第51戦闘迎撃航空団のF-86「セイバー」戦闘機(画像:アメリカ空軍)。

 そもそも、朝鮮戦争で用いられたF-84「サンダージェット」やF-86「セイバー」といったアメリカ製戦闘機が、軽量で運動性に優れたソ連製のMiG-15に苦戦したことから、より高速で高高度性能に優れた超音速戦闘機としてアメリカはF-104「スターファイター」を生み出します。

 F-104戦闘機は1954(昭和29)年に初飛行し、改修や再設計を経て1958(昭和33)年2月26日、カリフォルニア州ハミルトン空軍基地の第83戦闘迎撃飛行隊に配備されたのを皮切りに、母国アメリカを始め日本や西ドイツ(当時)、イタリアなど、様々な国へ輸出・供与されました。そして、そこに当時アメリカと軍事的同盟関係にあった台湾(中華民国)も含まれることになりました。

 その台湾にF-104「スターファイター」が供与されるようになったのには経緯がありました。その理由をひも解くには朝鮮戦争前、第2次大戦の終結直後にさかのぼる必要があります。

 当時、中国大陸では1946(昭和21)年から1949(昭和24)年にかけて蒋介石をトップとする国民党と、毛沢東率いる共産党が泥沼の内戦を行っていました。その結果、後者の共産党が勝利し、大陸に中華人民共和国が成立することになります。それでも、敗れた国民党は逃れた台湾島で抵抗をつづけたため、以後も両軍は軍事衝突を繰り返すこととなりました。

 そのようななか、1958(昭和33)年2月18日、中国の山東省上空で台湾の偵察機B-57D「キャンベラ」が、中国のMiG-15に撃墜されるという事件が起こります。それから約5か月後の7月29日には、広東省の南澳(なんおう)島付近を哨戒中だった台湾のF-84Gと、中国のMiG-17が交戦し、台湾側の2機が撃墜されたほか、さらに8月14日には台湾のF-86と中国のMiG-17が空中戦を繰り広げ、前者が2機を失いました。

 その1週間後、8月23日には台湾が中国大陸で唯一、実効支配する福建省金門島に人民解放軍が砲撃を開始、いわゆる「金門島砲撃」と呼ばれる地上戦が始まります。

【今じゃ無理!】台湾の飛行場へ展開したアメリカ空軍のF-104戦闘機ほか

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コメント

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1件のコメント

  1.  「中国大陸で唯一、実効支配する福建省金門島」とありますが、連江縣馬祖は、大陸からの距離が200キロ以上あるが、金門島は2キロ程度なので、このような表現になったと理解していいでしょうか。

     また、「1972(昭和47)年の米中国交正常化」とありますが、これは上海コミュニケをさすのでしょうか。金門島への隔日砲撃は、1978年末まで続きました(1979年1月1日に米中国交樹立)。危機が収まったのは、砲撃が終わったとするなら1979年ですし、大規模な砲撃がなくなったとすれば1960年、隔日砲撃への移行ととらえるなら、1958年10月でしょう。