バルチック艦隊を見張り続けた日本船って? 大戦果もたらした情報戦と「無線のリレー」
「信濃丸」がもたらした待望の「敵艦発見」電
一方、当時の日本海軍は哨戒などに使うため、多くの民間船を徴傭(ちょうよう)、つまりチャーターしていました。なお、このように民間船を軍が用いることは、日本に限らず各国で行われていたことで、戦時に民間船を徴傭して補助任務に就けることは海軍としては当たり前のことでした。
そういった海軍徴傭船の1隻が、日本郵船の貨客船「信濃丸」(6388総トン)です。同船は、1900(明治33)年にイギリス、グラスゴーのデビッド・ウイリアム・ヘンダーソン社で竣工したばかりの最新船(当時)でした。「信濃丸」は日本回航後、貨客船として早速シアトル航路に投入され、のちに小説家として名を馳せた永井荷風もアメリカ留学の際に乗船するなどしています。
この「信濃丸」、当初は日本陸軍に徴傭され、軍隊輸送船として用いられていましたが、中国大陸への兵力集中がおおむね完了した1904(明治37)年の暮れには陸軍を解傭(かいよう)され、今度は海軍に徴傭されて、翌1905(明治38)年の初頭には巡洋艦へ改装されました。
なお、こうした民間船転用の巡洋艦を「仮装巡洋艦」と呼びます。その大きさと、15.4ノット(約28.5km/h)という快速性、さらに8ノット(約14.8km/h)で7700浬(約1万4260km)という貨客船ゆえの長大な航続距離が、哨戒用の仮装巡洋艦として適していると考えられたのでしょう。
改装が終わった「信濃丸」は、4月に入ると対馬を起点に哨戒任務へ投入され、やがて日本海海戦当日、すなわち運命の5月27日を迎えます。
この日、午前2時45分、「信濃丸」は1隻の所属不明船を発見します。その船を観察しようと、左舷側から近づくと……船首左舷方向に数十隻の船と煙突から上がる煙を確認しました。なんと、このとき「信濃丸」はバルチック艦隊の隊列に入り込んでしまっていたのです。
4時47分、「信濃丸」の三六式無線機は「敵艦隊ノ煤煙ラシキモノ見ユ」と打電します。さらに5分後の4時52分には「タタタタタタタモ二〇三YRセ」の電文が打たれました。これは「敵の第二艦隊(バルチック艦隊)見ユ。地点符号203(北緯33度20分東経128度10分)。信濃丸、発信」を意味するコードです。この電文は、同じく哨戒任務にあたる第三艦隊の「厳島」が中継することで、朝鮮半島南岸の鎮海湾に待機する日本海軍の連合艦隊司令部へと転電されました。
以後、バルチック艦隊には巡洋艦「和泉」も張り付き、その状況を報告し続けました。これにより連合艦隊司令部は、時々刻々の状況を把握しながら戦場に向けて必勝の態勢で進んだのです。
西暦と元号の標記に矛盾がある箇所があります。
「標記」→「表記」