3つのターミナル統合宣言で注目「成田空港」 なぜバラバラだった? 60年前の“理想形”とは
これまでに3つの旅客ターミナルをもつようになった成田空港が、将来的にひとつのターミナルに集約される可能性が出てきました。3つのターミナルはなぜでき、これからどうなるのでしょうか。
本当は超巨大ターミナル→やっぱり2か所で…
成田空港を運営するNAA(成田国際空港会社)が2022年9月、現在同空港にある3つの旅客ターミナルを、将来的にひとつのターミナルに集約する構想を発表しました。この理由をNAAは利用客の大幅な増加を見込み、その際の利便性や効率性を高めるためとしています。
現在の3つの旅客ターミナルはどのように出来上がったのでしょうか。空港開港前の歴史から見ていきましょう。
実は成田空港のターミナルビルは、当初、現在のものとは全く異なる配置となる計画でした。1964年に公開された運輸白書によると、旅客ターミナルビルはひとつにまとめられており、カーブを描いた「C型」の巨大建造物から一定間隔でサテライト(旅客機が駐機する分棟)が伸びているような形状と確認できます。
そもそも新東京国際空港(成田空港のかつての正式名称)は、1970年頃には羽田空港における航空需要の増大がパンクするという、運輸省の予測から、首都圏に羽田空港を補佐する新空港が不可欠と判断され、建設が計画されました。新空港は、東京湾埋め立て、霞ケ浦(茨城県)などの他の案も含めた度重なる慎重な調査を経て、1965年に関係閣僚懇談会で、正式に千葉県・富里にいったん内定。しかし最終的には、成田市三里塚に新空港建設が決定されています。
建設開始時の成田空港のレイアウトは、初期案から一転し、2カ所の旅客ターミナルビルを主滑走路の間に配置するというものでした。滑走路は3本で、当初の計画案と比較すると大きくスケールダウンとはなりましたが、だいぶ「現在の成田空港」に近いものとなりました。
しかし、計画位置における土地の収用に大きな課題があり、その計画をすべて実現となると時間を要すると予想され、当初の懸案であった羽田空港の保管するタイム・リミットも超えてしまう可能性もあったことから、主滑走路一本と第1ターミナルのみ、という”暫定体制”で開港を目指すことに。結果として、このレイアウトで1978年5月20日の新東京国際空港の供用開始を迎えました。
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