戦艦「武蔵」の乗組員が経験した“二度目の沈没” 沈められた徴用船「さんとす丸」 生存者のその後
「さんとす丸」沈没! そして…
「さんとす丸」には内地に移送される陸軍部隊も乗船していましたが、戦艦「武蔵」の生存者が最も多く、420名にのぼっていました。
11月23日、哨戒艇2隻と駆潜艇1隻に護衛された「さんとす丸」はマニラ港を出航します。11月25日午前1時過ぎにルソン島北部沖でアメリカの潜水艦「アトゥル」の魚雷で、まず駆潜艇1隻が沈められます。続いて「さんとす丸」に魚雷2本が命中、同船は間もなく沈没しました。
残った哨戒艇と駆潜艇が波間に漂う将兵を救助しますが、収容しきれなかった生存者は、その日の夕方までに高雄から救援に来た艦艇に任されました。
「さんとす丸」の沈没で約3000名の陸海軍将兵が亡くなりましたが、「武蔵」の乗組員は約120名が生き延びています。二度の沈没を経験した「武蔵」の生存者は、台湾の高雄警備府で終戦を迎えた者たちのほかに、別便で内地に帰還した者もありました。
なお、「さんとす丸」以外の船で日本本土へ帰り着いた「武蔵」の生存者も一部おり、彼らは横須賀の久里浜にある軍の療養所に収容されたのち、1945(昭和20)年に入ると国内各地に異動していきました。
まもなく、日本の敗戦で太平洋戦争は終結。戦後、海運業界の再建が始まります。そういったなか、大阪商船は南米航路の貨物船を再開しました。そして1950(昭和25)年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本がアメリカの占領状態から脱して主権を取り戻すと、大阪商船は南米移民の輸送を復活させます。そのために建造した戦後最初の貨客船が二代目「さんとす丸」でした。
1952(昭和27)年12月に竣工した二代目「さんとす丸」はその後、1972(昭和47)年、パナマの船会社に売却されたのち、台湾の船会社に転売され、1976(昭和51)年に廃船になりました。
太平洋戦争では、多くの民間徴用船と乗組員が犠牲になりました。「さんとす丸」の沈没はその一例にすぎません。しかし、その最期はせっかくレイテ沖海戦を生き延びた「武蔵」の乗組員と運命を共にするという、戦争末期ならではの過酷な現実が待っていたのです。
【了】
Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)
軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。
武蔵生き残り残留組の一部はフォートドラムに立てこもり通風筒から5000ガロンのガソリン混合燃料を米軍に流し込まれてこんがり焼かれてしまったのであまり幸せではなかったでしょうね…