最初は木造船!? 極寒の荒波に耐えた歴代の南極観測船 やっぱりすごかった!
南極と日本の関わりは1911年に白瀬 矗(のぶ)が計画した南極探検から始まります。戦後になると定期的に観測が行われ、そこに向かう南極観測船がいくつも建造されました。極寒の荒波を進んだ南極観測船は、それぞれ逸話を残したスゴイ船ばかりです。
荒れ狂う海や分厚い氷が相手の船
12月14日は「南極の日」と呼ばれています。 1911年12月14日、ノルウェーの探検家ロアール・アムンセンと3人の隊員が、世界ではじめて南極点に達したことを記念したものですが、実は日本ではこのアムンセン探検と同時期に、白瀬 矗(のぶ)という探検家が南極探検を行い、以降現在まで続くことになる南極観測が始まります。
極寒の大地で観測することも大変ですが、南極はたどり着くまでも困難を極めます。南極の近くは、強い偏西風の影響で海が荒れることで有名だからです。そのエリアは暴風圏と呼ばれ、かつては船が近づくことすら困難を極めました。
20世紀に入ってからは、南極探検や南極観測の気運が高まり、日本もその流れに乗ることになります。その危険な航海には、どのような船が使われたのでしょうか。
最初に南極を目指した船はなんと木製の小舟!「開南丸」
1910年1月、探検家の白瀬はノルウェーのアムンセン、イギリスのロバート・ファルコン・スコットが競っていた南極点到達レースに自身も参加することを決意。当時の帝国議会に、国益の観点から南極観測の必要性を訴えます。その後7月には大隈重信を中心とした南極探検後援会が発足し、木造船「開南丸」を得て11月に出航します。船の命名者は東郷平八郎でした。
資金援助を得て手に入れた船とはいえ、たった204トンの木造船で、18馬力の補助エンジンを搭載していましたが、基本は帆で動く帆船でした。この心もとない小舟で、荒れているうえに海面が凍結している南極海を超えるのは困難と思われていました。
しかし、同船の船長である野村直吉は、江戸時代に日本海側で主流だった北前船で航海した経験により、船を巧みに操り、見事に南極海を越えて白瀬を送り届けることに成功します。白瀬は南極点到達に関しては断念したものの、南緯80度05分、西経156度37分に日章旗を立て、一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、日本の南極観測の礎を築きます。
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