【鉄道のある風景今昔】補助金頼みで90年代まで存続「野上電鉄」 豪快な始業風景 「駅でない」珍駅も
JR紀勢本線 海南駅の山側に、かつて野上電鉄の始発 日方駅がありました。生石高原の登山口までを結ぶ路線でしたが、末期には補助金すら打ち切られるほどの大赤字。そんな小私鉄を数回に分けて紹介します。
この記事の目次
・モータリゼーション、オイルショック… 苦境に立たされた小私鉄
・寝台車のない「夜行寝台列車」
・突然の始業 うなるコンプレッサー、瞬く灯火類
・日方駅と連絡口駅の奇妙な関係
【画像枚数】全18点
モータリゼーション、オイルショック… 苦境に立たされた小私鉄
野上電気鉄道――それは和歌山県の海南市から生石高原の登山口までを結ぶ11.4kmの地方電化私鉄でした。開業は国鉄紀勢本線の開通よりも早い1916(大正5)年。しかし戦後、モータリゼーションとオイルショックの煽りを受け、1960年代には経営難に陥りいったんは廃止を表明するなど、存廃の危機に瀕します。結局、欠損補助金に頼った運営を行った挙句、最後は欠損補助の対象から外され、まさに刀折れ矢尽き果てる形で鉄道線は廃止に。合わせて「野上電気鉄道株式会社」自体も解散を余儀なくされました。
似たように支援を打ち切られ悲惨な最期を迎え、廃止・解散を余儀なくされた事例は、北海道の寿都(すっつ)鉄道と熊本の山鹿温泉鉄道(貸切バス事業者としては6年間存続)ぐらいであったといわれています。
もう少し具体的に野上電鉄の経緯を説明しましょう。1966(昭和41)年に小口貨物を廃止、1971(昭和46)年に車扱い貨物を廃止すると、同年に全線廃止も表明します。1973(昭和48)年に路線の約半分にあたる沖野々以遠廃止の申請を提出したものの、国や自治体の補助金を受けられるということで、1975(昭和50)年にいったん廃止撤回をしています。
しかしながら乗客は減少の一途をたどり、1983(昭和58)年には運行本数を削減するなど、厳しい経営は変わりませんでした。その後は補助金に頼りっぱなしで自助努力が見られないとして、1992(平成4)年に国の補助金が打ち切られることになり、どこからも支援を得られないまま1994(平成6)年、ついに鉄道線廃止と会社解散に追い込まれたのです。
残念な最期を遂げた同線でしたが、そこで活躍した車両や施設はその懐事情のために更新されることもなく旧態依然としていたために、ファンにとっては魅力的な役者が揃っていたのは当然ともいえ皮肉なことでもありました。
そのような野上電気鉄道を複数回に分けて紹介してみたいと思います。今回はその1回目として、始発駅の日方駅周辺の思い出を旅の記憶と絡めてまとめてみました。
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Writer: 宮下洋一(鉄道ライター、模型作家)
1961年大阪生まれ。幼少より鉄道に興味を持つ。家具メーカー勤務を経て現在はフリー作家。在職中より鉄道趣味誌で模型作品や鉄道施設・車輌に関する記事や著作を発表。ネコパブリッシングより国鉄・私鉄の車輌ガイド各種や『昭和の鉄道施設』・心象鉄道模型の世界をまとめた『地鉄電車慕情』など著作多数。現在も連載記事を執筆中。鉄道を取り巻く世界全体に興味を持つ。