【鉄道のある風景今昔】近鉄時代の“特殊狭軌”内部・八王子線 ナローのままあすなろう鉄道に至る4つの転機とは

日本国内で数少ないナローゲージ鉄道として知られる四日市あすなろう鉄道は、現在に至るまで幾度となく運行会社が変わっています。近鉄が運行していた1970~80年代にかけての内部・八王子線の記録を紹介します。

この記事の目次

・幾度となく変わった運行会社
・なぜ内部・八王子線だけナローゲージで残っているのか
・鉄道廃止、BRT化もささやかれるが…
・うだるような昼下がり 乗客はまばらだった
・4年間で小変化 電動車が先頭(両端)に

【画像枚数】全19点

幾度となく変わった運行会社

 近畿日本鉄道の内部・八王子線および北勢線は、大手私鉄の路線とは思えない軽便鉄道(ナローゲージ)の電化鉄道線で、近鉄では特殊狭軌線と呼ばれていました。今回は、現在の四日市あすなろう鉄道内部線について、近畿日本鉄道時代の姿を振り返ってみたいと思います。

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地平ホームで発車待ちの内部線電車。内部線と八王子線はほぼ交互運転とされていた。写真は内部行きのモニ212で、後ろに2両のトレーラーを従えた3両編成。1970年7月、近鉄四日市(所蔵:網谷忠雄)。

 内部線の歴史は古く、何度も経営する鉄道会社を変えながらも今に至ります。同線は、1912(大正元)年から1915(大正4)年にかけて三重軌道が開業させた四日市市~日永~八王子村(後の伊勢八王子)間と、三重鉄道が1922(大正11)年に日永~内部間で延伸開業させた鈴鹿支線から構成されています。

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内部駅構内には検修設備と車庫があり、ゆるくカーブをした構内には多くの電車が休んでいた。1970年7月(所蔵:網谷忠雄)。
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1970年の検修庫内部の様子。折しもサ121が窓枠も外して更新工事の最中であった。1970年7月、内部(所蔵:網谷忠雄)。

 鈴鹿支線延伸や改軌の計画もあったのですが、三重鉄道の旅客収入が伸び悩み、第一次世界大戦後の不況も重なって実現しないまま、鉄道敷設免許は失効となりました。

 その後、戦時統合で1944(昭和19)年には三重交通の路線の一部となりました。戦時統合された三重交通には軽便鉄道の松阪線なども含まれており、当時、国内では最大規模の電化軽便路線を持つ鉄道事業者となりました。またこの時点から、湯の山線も含めて四日市地区にあった電化軽便路線は三重線と総称されるようになりました。

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Writer: 宮下洋一(鉄道ライター、模型作家)

1961年大阪生まれ。幼少より鉄道に興味を持つ。家具メーカー勤務を経て現在はフリー作家。在職中より鉄道趣味誌で模型作品や鉄道施設・車輌に関する記事や著作を発表。ネコパブリッシングより国鉄・私鉄の車輌ガイド各種や『昭和の鉄道施設』・心象鉄道模型の世界をまとめた『地鉄電車慕情』など著作多数。現在も連載記事を執筆中。鉄道を取り巻く世界全体に興味を持つ。

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