「都営三田線を大宮へ」国鉄も乗り気だった"埼玉延伸構想"とは 時代に翻弄された越境の夢
東急を経由して横浜方面へ直通する都営地下鉄三田線。いっぽうで北側でも、埼玉方面への延伸が構想されたこともありました。実現するはずだった越境が頓挫した後は、別の方向へ"活用"しようとする動きもあったのです。
三田線の「大直通ネットワーク」夢破れ
西高島平と巣鴨、大手町、三田、目黒とを結ぶ都営地下鉄三田線。2000(平成12)年に東京メトロ南北線を介した三田~目黒間の延伸と東急目黒線との直通運転が始まり、2023年3月には東急・相鉄新横浜線も開業するなど、目まぐるしく変化する目黒方面に対して、東京都板橋区の北西端に位置する西高島平方面は50年近く変化がありません。
終点・西高島平駅では、高架線がホームからさらに少し先まで延びて唐突に途切れており、延伸を想定した構造となっています。実際に西高島平方面にはその計画がありましたが、実は構想された“延伸先”は2つあります。
三田線(当時は地下鉄6号線)の整備をめぐっては1964(昭和39)年、東京都と東武と東急で三者合意を実施。その内容は、「東京都が志村(現:高島平)~西馬込間、東武は東上線大和町(現:和光市)から分岐して志村までを建設し、相互直通運転を実施。いっぽう東急は池上線から分岐して泉岳寺~桐ケ谷間を建設し、さらに田園都市線と直通する」というものでした。
実現すれば、田園都市線から現在の大井町線、池上線、東急新線、都営三田線、東武東上線をむすぶ長大な直通ネットワークが生まれるはずでした。
ところが合意からわずか1年後、東急は田園都市線を新玉川線(現在の田園都市線渋谷~二子玉川間)経由で半蔵門線に乗り入れる計画に転換し、三田線直通の撤回を表明。東武も1968(昭和43)年に直通先を有楽町線に変更し、直通運転の取りやめを通告。三田線は完全にはしごを外されてしまいます。
そこで志村以北の「活用策」として、西の和光市方面ではなく、北方向の延伸を模索する動きが始まります。
例えば1971(昭和46)年2月24日の衆議院予算委員会で、翌1972(昭和47)年に埼玉県知事に就任する畑和衆議院議員(社会党)は「志村あたりから川を渡って、いまの十七号国道がありますけれども、それに沿ったような形の延伸ができないか」と質問しています。
三田線は、埼玉方向へはデッドエンドでも、高島平から都心方面に出るにはとても便利な線であることを定年後に発見しました。自宅は、三田線高島平駅と東武東上線東武練馬駅のちょうど中間にあります。最近、横浜に出かける機会が多くなったのですが、東上線から池袋に出て、湘南新宿ラインに乗り継ぐよりは、高島平から三田線で三田に行き、京急線に乗り継ぐ方がやや便利。運賃も少々安くつくし、ずっと座って三田まで行ける。虎の門病院に出かける朝、東武線だと乗り換えで池袋駅のラッシュをかき分ける必要があるが、始発に近い高島平駅から三田線に乗れば、座って日比谷まで行けて、日比谷線に乗り換えてすぐに虎ノ門ヒルズ駅になる。埼玉方面に延伸されていたら、埼京線のような通勤路線になっていたんでしょうね。
武蔵野線に接続し、武蔵の貨物線経由で大宮まで伸ばすことも可能。