「都営三田線を大宮へ」国鉄も乗り気だった"埼玉延伸構想"とは 時代に翻弄された越境の夢
三田線の“起死回生”延伸計画とは
こうした要望を反映し、1972(昭和47)年の都市交通審議会答申第15号は、三田線を高島平から北上して埼玉に入り、戸田市、浦和市を経由して大宮市西部へと延伸する構想を掲げました(自治体名は当時)。
背景として東北線(宇都宮線)や高崎線など国鉄の通勤路線が高度成長以降、慢性的な混雑が問題化しており、国鉄は各方面路線の複々線化計画「五方面作戦」を進めていましたが、それだけで混雑解消は困難であり、私鉄や地下鉄の拡充も求められていました。
それを端的に示すのが1973(昭和48)年3月16日の参議院予算委員会での一幕です。瀬谷英行参議院議員(社会党)は「新幹線に併設をして在来線を走らせるというようなことはできないのかどうか、あるいは地下鉄の導入をして輸送力を増強するというようなことができないのかどうか」と質問。
これに対して磯崎叡国鉄総裁は、「たとえば、高島平でとまっている六号線を、何らかの形で荒川を渡って埼玉県に持っていく。(略)それをできれば私のほうの東北線、高崎線につなぎますれば、ちょうどいまの営団の東西線と私のほうの連絡と同じようになる。非常に都心に直通できて、しかも、郊外から乗りかえなしで来られるというようなことになりますので、私は、都市交通審議会のメンバーの一人といたしましても、そういう方法が一番いいんじゃないかというふうに思っております」と答弁しています。これは現在の東京メトロ東西線とJR中央・総武線との相互直通運転をイメージしたものです。
瀬谷議員の質問にもあるように当時、大宮・浦和西部の輸送力増強策としては、三田線延伸と新幹線併設の通勤新線という2つの選択肢がありましたが、国鉄が1973(昭和48)年に東北新幹線大宮以南の沿線に対し、高架線建設容認の見返りとして通勤新線、つまり現在のJR埼京線の建設を提示したことで、議論は事実上決着しました。
三田線は、埼玉方向へはデッドエンドでも、高島平から都心方面に出るにはとても便利な線であることを定年後に発見しました。自宅は、三田線高島平駅と東武東上線東武練馬駅のちょうど中間にあります。最近、横浜に出かける機会が多くなったのですが、東上線から池袋に出て、湘南新宿ラインに乗り継ぐよりは、高島平から三田線で三田に行き、京急線に乗り継ぐ方がやや便利。運賃も少々安くつくし、ずっと座って三田まで行ける。虎の門病院に出かける朝、東武線だと乗り換えで池袋駅のラッシュをかき分ける必要があるが、始発に近い高島平駅から三田線に乗れば、座って日比谷まで行けて、日比谷線に乗り換えてすぐに虎ノ門ヒルズ駅になる。埼玉方面に延伸されていたら、埼京線のような通勤路線になっていたんでしょうね。
武蔵野線に接続し、武蔵の貨物線経由で大宮まで伸ばすことも可能。