うめきた新駅とともに梅田から消える“地上の線路” 149年ぶり JR・阪急・阪神はどう変わった?
阪急高架化から8年後「国鉄が高架化するから阪急は地上に降りてねヨロシク」
各社の中で、先陣を切って1926(大正15)年に阪急・梅田駅が高架化を果たします。しかしこの頃、大阪市は既に国鉄(国有鉄道)大阪駅の高架化を強く求めており、そうなると高架上の阪急と地上の国鉄の“入れ替え”が必要となることは明白でした。
しかし、たった数年でも、阪急はこの高架化を急ぐ必要がありました。急激な乗客の増加で跨線橋の昇り降りが列車運行のネックとなっていただけでなく、十三~梅田間は宝塚線・神戸線の列車が集中し、一帯の高架化による複々線化が一刻も早く求められていたのです。
なお阪急は国鉄の高架化後の要求を見越して、当初より駅部分をすぐ撤去できる構造で建設していたといいます。もっともそのあと国が「費用はすべて阪急の負担」と言い出したのは想定外だったようで、数年のあいだ交渉は紛糾したものの、さすがに折半(ただし阪急側が多め)で合意。
1934(昭和9)年5月31日23時30分、阪急の最終列車が発車してから都合1800人(阪急600人、国鉄1200人)の人海戦術で切り替えが行われ、翌朝には高架上の国鉄大阪駅と、地上の阪急・梅田駅に列車が発着していたといいます。
なお、国鉄大阪駅は高架化を見据えて旅客・貨物機能の分離が図られ、いまの「うめきた新駅」の場所へ1928(昭和3)年に貨物拠点が設置されます。このあと2013年までの85年にわたって、最盛時には360万トンの貨物が発着する物流の要として機能を続けます。
そのころ阪神は、地上の梅田駅から四条畷方面への免許を申請するなど、延伸を模索していました。もっともこの頃には京阪が四条畷を経由する路線の新設に向けて駅用地(現在のHEP FIVE周辺)を確保するなど活発に動いており、都市開発のライバルへのけん制と取れないこともありません。
しかし阪神も京阪も延伸は実現せず。1939(昭和14)年に阪神は、地下鉄御堂筋線・梅田駅と目と鼻の先に、現在の地下駅を開業します。地下鉄とほぼ同じ深さにあるため、その先に線路を伸ばすことはほぼ不可能となりました。
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